金星への道<1>
皇紀2592年 10月15日 三菱名古屋製作所
初の空冷複列14気筒発動機A4の開発に成功した三菱はその改良を続けていた。そして金星と命名された。
この初期の金星であるA4は最初期の設計でもあったため試行錯誤の結果が随所に見られ、明らかに不合理な部分も内包していたのである。
また、深尾淳二技師(発動機部長)は軍部の意向を突っぱねる形で発動機の仕様決定を自分たちの主導で行うように推し進め、その結果金星系統の発動機を陸海軍どちらかだけでなく両方へ共通の仕様で納入可能なようにしたのである。発動機の仕様共通化・標準化は社内における生産効率化だけでなく、用兵側の軍部とってもメリットがあるものであった。
しかし、軍部は自分たちが求める仕様でないことに腹を立て、特に陸軍側は三菱の納入拒否という通達を出すという行動に出ていたのだ。これに三菱の上層部は慌て深尾ら開発陣に陸軍側の要望を受け入れるように要求したのであるが、深尾はこれに対し頑として首を縦に振らなかったのである。
東條英機軍事調査部長はこの問題を聞きつけると航空本部に殴り込みを敢行したのである。
「航空本部長渡辺閣下はおいでであるか!」
東條の剣幕に付近にいた将校は揃って首を振る。彼らにとっては雲の上の将官が怒鳴り声を上げていることに黙ってやり過ごそうという意思が働くのは仕方がないことである。
「閣下はいつお帰りになる! 貴様らが知らんわけがない、答えよ!」
「閣下は本日はお戻りになりません、用件を伺いますのでまた後日おいでいただきたく……」
「閣下が戻らぬのであれば、技術部長と補給部長はおらぬのか! 軍事調査部長として見逃すことが出来ぬ事案が発生しておる、これは我が陸軍の航空行政に大いに禍根を残す大事ぞ!」
東條の剣幕に将校が技術部と補給部に走った。普段なら電話で事足りるのであるが、条件反射で走り出したのである。
数分後、技術部長と補給部長、そしてそれぞれの部員が揃って顔を出す。彼らも何が起きているか理解出来ておらず怪訝な表情を浮かべつつであったが、東條の表情を見るやただ事ではないと居住まいを正すのであった。
「本来は渡辺閣下を通すのが筋であるが、ことは急を要する。貴様らは三菱に不要な圧力を掛けているそうだな?」
「東條閣下、一体どういうことでありましょうか」
技術部長が代表して質問するが、東條にとってそれがまた怒りのボルテージを上げることにつながったのである。
「貴様ら、自分たちが何をしたのかわかっておらぬようだな! それで技術を兵器を扱うもののあるべき姿か! 恥を知れ!」
航空本部の面々は揃って目を白黒させていた。それは仕方がないことかも知れない。だが、東條に道理があったことから一見理不尽で可哀想ではあっても彼ら自身に非があるのだからそれも仕方がない。
「三菱の開発した発動機である金星の納入を拒否したり文句をつけているそうだな? これは我が陸軍にとって大きな損失であると貴様らはわかっていない。三菱は陸軍であっても海軍であっても同じ規格の共通仕様の発動機を納入することで我ら軍部に最大限の貢献をしておるのだ。それを、貴様らは、陸軍の言うことを聞かない……この一言で台無しにしておるのだ!」
「しかし閣下……」
「しかしも案山子もない! 仕様が違うものであれば……例えばネジの寸法一つでも構わんが、それだけで生産性はガタ落ちになる。それだけではない、海軍に使えても陸軍には寸法が違うせいで整備が出来ぬと言うことが出てくるかも知れない、整備が出来ぬと言うことは飛行機が飛ばぬと言うことだ! 飛行機が飛ばねば、そこにあるのはただの鉄の塊だ! その一機が飛ばぬことで味方の兵が敵に倒されることもあるだろう。それだけならまだマシだが、部隊まるごと飛べなければどうだ? 航空支援や制空権確保が出来ぬことになる。それは戦局を崩壊させかねん問題だと何故貴様らはわからんのだ!」
東條の剣幕はその後も続き、言うだけ言った後、文書で航空本部長に方針転換を促すことを伝えた。
「……オホン……さて、貴様らにとっては理不尽なそれだっただろうが、私は貴様らが憎いわけではない。誤った前例を作ることで貴様らが後に糾弾されぬためのものであったのだ。そして、我が帝国は陸軍だけの都合で何事かを行ってはならんのだ。そんな贅沢が出来るほど我が帝国の国力は大きくない……それをよく理解しているのは民間の企業である。彼らの言い分をよく聞くことも大事なのだ」
そう言うと東條は日頃の業務に対する労いの言葉を一人一人に掛けることを忘れなかった。
その後、渡辺錠太郎航空本部長からの通達で三菱に対する納入拒否は撤回され、陸軍の機材における三菱の割合は増え出すことになるのであった。
無論、この結果は陸軍におけるシェアを急速に伸ばしていた中島飛行機と川崎航空機にとって面白いことではないため各社からの付け届けが減ることになるのだがそれはそれである。




