有坂総一郎の苦悩
皇紀2592年 9月10日 帝都東京
「どうしても年間6万台がピークになるのか……」
有坂総一郎は頭を抱えつつ試算されたそれを見直す。
「現在の遼河油田の産油量と軽油精製量ではこれが精一杯になります。無論、合衆国や蘭印などからのガソリン供給も含めての数字ですのでこれ以上となりますと……」
白衣を着た研究員は別の資料を取り出すとその内容を要点だけ読み上げ総一郎に手渡す。何度か試算をし直した結果であるとその表情が物語っているが、その資料を受け取った側にしてみればそれが間違いであって欲しいと思うのは仕方がないことではある。
「現在、中島飛行機のトラックは過剰能力であり燃費も悪いのです。流石にこれを民間で運用するのは限られた企業でなければ採算が合いません。特に合衆国からのガソリン供給はそれほど滞ることはないですが値上げの影響の方が大きいのです」
「だろうね。だからこそ、商工省は自分が音頭をとって統制型発動機の開発を狙っているのだけれどね。ディーゼル発動機ならガソリンに比べて明らかに燃費が良くなるし……だからと言っても……」
「商工省は国産車の発動機をすべてディーゼルに置き換えて標準化をしたい意向ですが、そう上手くいくでしょうか?」
「君たち技術者から見てどう思えますかね?」
研究員からの問いかけに総一郎は質問で返す。前世の記憶であれば、外資の追い出しで自動車生産が落ち込んだこと、思ったほどの効果を上げなかったこと、統制エンジンの開発は成功したが馬力の割に重く大きかったことで性能が限られたことを知っているだけに答えづらかったのだ。
「赤菱自動車工業のディーゼル発動機は優れていると思いますが、あれも排気量が大きく民生用では使い勝手が悪いでしょうね。東京瓦斯電気工業が研究している試製ディーゼル発動機がモジュラー構造で量産性に配慮していると聞きますが、やはり馬力の割に大型になりがちであるという話だそうです……それを考えるとやはり……」
「まぁ、そうだろうね。安易に外国からライセンス生産したとしてもそれを自身の血肉に出来ないと……だね」
「そういうことです。こればっかりは、時間を掛けて技術的経験を積まないとすぐには開花しないというものですよ。暫くは堅実にガソリン車で有用な車両を開発しないといけません。ただ、東京瓦斯電気工業の方向性が間違っているというわけではありません。あれはあれで利点が大きく、日本の国情には適しているのも事実です」
道理が通っている研究員の言葉に頷くしかなかった。
「むしろ問題は発動機の開発ではなく、燃料の方であると考えます。時間と予算さえいただければ我々技術者はその期待に応えることは可能であると断言できますが、燃料だけはそういうわけにはいきません」
「やっぱり足りないか?」
「足りません。近い将来、ガソリンは航空機用として大きくその需要を伸ばすことは間違いありません。そうなると自動車用に出回るガソリンが極端に減ることになりますでしょう。その際に代用燃料として注目されるのは軽油とならざるを得ません。しかし、その軽油もディーゼル車の普及とともに需要が増えます。特に軍需向けのものが増えることは間違いありません」
「そうだろうね……」
「仮に全騎兵連隊が自動車化した場合、今の10倍の軽油消費ですら追いつかなくなりますね……その場合、遼河油田の現在のそれでは賄いきれません。速やかな設備増強をお願いします。これは急務です。我が社の総力を挙げてでも行うべきです」
彼の目は真に迫っていた。恐らくは彼らの試算の中には重油なども含めて赤信号がともっているのであろう。だからこそ、自動車生産の急速な増強よりも油田開発に注力しろと要求を出したのであろう。
「会長、彼の意見を尊重して油田開発に投資を行いましょう。恐らくは陸軍さんも彼と同じ結論を出すと思われます……」
後ろに控えていた秘書兼執行役員である有坂結奈は助言すると調査員に向かって続けて言う。
「合衆国の新聞にたれ込みしてくださいますか? 有坂コンツェルンは満州の油田に巨額投資を行う。そのために社債を発行すると……」
「ガソリン代として巻き上げられた日本のカネを合衆国が手出しできない満州に投資させるのですね? しかも、日米対立したら回収不能になるという寸法で……」
「ええ、そうよ、今度の大統領選挙は現職のフーヴァー大統領が劣勢だそうですし……民主党政権は日本にはあまり好ましくないですからね」
「確かに……では、そのように……役員会の認証が出ましたら大々的にキャンペーンを打ち出します。これは忙しくなりそうです、では失礼します」
油田開発の内諾と合衆国を罠に嵌めるというそれに俄然やる気が出た彼は意気揚々と会長執務室を後にする。残された会長夫妻は深刻な表情であった。
「やはり、燃料が足りんか……」




