軍事調査部長のお仕事
皇紀2592年 9月10日 帝都東京
東條英機少将は軍事調査委員長、ついで改組後の軍事調査部長に就いたことである意味では独自行動が可能になっていた。就任以来、軍事技術調査と称し、子飼いの者たちを各部署から引き抜くと欧米へと外遊させていた。
それだけでなく、軍事調査部の本来の職域である社会思想情勢の調査にも積極的にその手腕を発揮していたのである。このとき、内務省だけでなく憲兵隊とのパイプを活かし、真の憲兵司令官と憲兵たちに言われまさに憲兵の親分としてその信頼と忠誠を獲得していったのである。
実際にお膝元である東京憲兵隊に至っては事実上、東條の忠実な配下となっていたのである。無論、これは私兵化と誹りを免れないが、憲兵たちにとっては尽くすべき親分を見つけた思いであったのは間違いない。
陸軍省や憲兵司令部も縄張り破りであることは認識していたが、そもそも軍事調査部という官制そのものが陸軍の官制外のポストであり、また、思想や新聞報道、偕行社に影響力を行使出来る職制であったことも影響し手出しが出来ない聖域と化していたのである。それもこれも東條の手腕が鮮やかすぎたこと、内務省・憲兵隊に深く影響力を行使出来る人物が東條以外に存在しなかったことから黙認されていたのである。
無論、東條はその黙認に甘えていたわけではなかった。実績を出す限りは自身の独断専行が許されると判断すると、職権の領域内で出来る手を打ち続けたのである。
特に子飼いの甘粕正彦元憲兵大尉のA機関からの満州・支那情勢の報告は参謀本部に回されると関東軍の増強や兵備の強化に活用され、また、赤化思想が広まりそうな部隊の取り締まり強化など憲兵司令部へと矢継ぎ早に手を打っていた。
特に欧州に派遣されている富永恭次中佐からの報告は関東軍に配置されている列車砲部隊にその戦訓がフィードバックされることでソ連のハイラル要塞への圧力に活用されていただけでなく、ユーゴスラヴィア王国残党兵やティトーのユーゴスラヴィア人民解放戦線とのゲリラ戦についてもその教訓は帝国陸軍に大きく貢献することとなるのである。
また、テッシェンをめぐるポーランドとチェコスロヴァキアの争いもまた東條の放った密偵や欧州の新聞報道などから詳しく分析が行われ、東條勧告が出されたことで陸軍省は騎兵連隊の改組を決断したのである。
騎兵連隊の改組によって馬匹問題の一部は解決に向かうことになるが、代わりに自動車供給という問題を抱えることになった。しかし、それは折良く赤菱自動車工業の山猫の開発という軽量高速なそれの採用という方向である程度は解決を見たのである。
欧州大戦後でもっとも戦場経験がある帝国陸軍は各戦場における戦訓を取り入れることに現時点では東條の暗躍によってある程度成功していたのである。だが、それが故に各方面において帝国陸軍に足りないものをあぶり出してしまったのだ。
騎兵が今後の戦争で実質的に役に立たないことを知ってしまったことで騎兵に変わる高機動兵科の急速な整備が必要となり、それが今度は戦車の速度不足を明確化し、車両用エンジンの開発の必要性をあぶり出し、今度は燃費の問題を突きつけてきたのだ。あらゆるものが帝国陸軍に求められたのである。
本来は30年代後半に徐々に明らかになる問題が5年以上早く東條によって明確化されたことで陸軍省は兵器開発に本腰を入れることとなったが、それとて容易に進むものではない。
東條自身も「これが正解」というそれを用意しているわけではない。概ね、これが必要であるというものはわかっているが、状況の変化したこの世界の大日本帝国の装備として正しいかは自信はなかったのだ。
だが、現実の問題として馬匹問題の解決は優先すべきことであったし、自動車と戦車を含む軍用車両の量産体制を整えることは必須であった。これなくば軍の兵站は前世と同様か、いやさらに逼迫し皇軍兵士が戦場で飢えに倒れることは目に見えていたのだ。ゆえに、東條は飛行機よりも車両を優先することを決めて行動を開始したのである。
というより、東條が飛行機について一切口を出さなかったのは軍事調査部長の権限では流石に航空行政に口を出せなかったという理由もあったのであるが、最大の理由は中島飛行機や三菱航空機のエンジン開発が史実よりも概ね2年程度は先行しているという事実からの安堵感からである。
史実の中島・栄が40年に量産だが、これが38年に投入されることになる。単純にそれだけでも1000馬力台の安定した14気筒空冷エンジンが戦闘機で運用可能になるのだ。それどころか、順調に進めば同じ38年に1500馬力台のハ34すら投入可能になるのだ。
三菱の場合はさらに進歩が早い可能性すらある。中島と違い、基礎エンジンを金星としているため金星40型系統を33年頃には投入可能になっている。しかも中島・栄よりも排気量が大きいため大馬力化は容易であるのだ。派生型の火星も37年前後には投入出来ると考えられる。
このあたりの皮算用が東條の脳裏にはあったのだ。いや、正確には自身の前世の記憶と有坂総一郎の記憶から前世の開発スケジュールを書き起こし、それに現在の開発進捗度を書き足し、逆算した結果概ねその頃合いだと結論が出たというべきだろう。
それが故に東條は思い切って飛行機に関しては中島と三菱に丸投げして、自身の裁量と人脈で影響力を行使しやすい車両開発へとシフトしたのであった。




