フォードとGMの日本市場における戦い
皇紀2592年 9月5日 帝都東京
フォード本社がV型8気筒エンジン車の標準化を開始した時点で、フォード・ジャパンは従来の直列4気筒エンジンによる量産が続き、乗用車は概ね15000台~20000台の年産規模であった。
日本における総生産数そのものは史実31年度の実績11505台と比較すれば約2倍の数字であり、旺盛な需要がフォード・ジャパンの生産力増強へとつながっていたが、いささか旧式化しつつあるA型に日本市場と付属する満州など極東市場の売れ行きにフォード・ジャパンの経営陣は危機感を募らせていた。
GMが直列6気筒エンジンを搭載したシボレー・モデルACインターナショナルを年次ごとにモデルチェンジしてGMジャパンにおいてさえも生産を始めていたからだ。もっとも、GMの場合はノックダウン生産であるためその供給数はアメリカ本国に比べれば少ないものの年産1万台規模の組み立てを日本工場で行っていた。
安定した性能と数で勝負をして価格攻勢が強みのフォードにとってGMの性能で勝負というそれにジワジワとシェアを奪われ始めたことで本国同様に新型車の投入を熱望せざるを得なくなったのである。
実際、日本市場において4気筒エンジンの車両であってもそれほど問題があったわけではないが、自動車需要の大口取引先であるタクシー業界のとある一社が自社広告でパワフルで乗り心地が良いシボレー導入と銘打ったことでフォードの取引先がGMへ流れたのである。乗客が同じ運賃なら見栄を張れ、虚栄心を満たせることで特に東京駅や大阪駅、京都駅など一大ステーションに集まるタクシーで選り好みをしたこともフォードにとっては誤算であったのだ。
実際の乗り心地は道路の舗装が進んでいない日本の道路事情ではそれほど違わないが、シボレーの新型に乗っているというそれがシボレーは乗り心地が良いという錯覚を生み、それがまた伝わることでタクシー業界が一斉にシボレーへ置き換えを始めたのである。
だが、逆に中古市場へ放出された程度の良いフォード車が別のタクシー業者に買いたたかれて運賃引き下げに一役買うことになるのであるが、それはそれでフォードにとっては新車売れ行きに影響を与えることとなりまさに踏んだり蹴ったりという状態だったのだ。
こういった事情もありフォード・ジャパンはアメリカ本社に新型車であるV8搭載モデルBの製造許可と生産設備の移設を要望したのである。
だが、この裏には有坂総一郎の関与が其処彼処に感じられたのであった。
彼の愛車がシボレーであったのは言うまでもないが、個人的にフォードと付き合いがあるにもかかわらずフォード車を買わずにライバル企業であるGMのシボレーを購入し、自家用車だけでなく、有坂コンツェルンの商用車として大々的に導入していたのである。
しかも、ことあるごとに陸軍高官や官僚や財界人の送迎にシボレーを用いていたことで口伝いにシボレー人気を演出したのである。
財界人が普段使いするタクシー業界がそれに目をつけるのは当然の帰結であり、最初に導入した大阪のタクシー会社は日本初のシボレータクシーと銘打ち大阪駅からの官僚や財界人の利用に重用されることとなった。
これを契機に京都において複数社がこぞって対抗心からシボレー導入に踏み切ったのである。観光タクシーや華族の御用達となったそれの宣伝効果は大きく、あっという間に京都市内からフォードタクシーは消滅し、中古で売られたフォードタクシーが大阪市内で格安タクシーとして活躍を始めてしまったのである。
モデルAが登場したのが28年であり、シボレーが29年、30年後半からモデルAの人気は右肩下がりとなり31年後半にはモデルAとシボレーの販売実績は並び、32年夏にはシボレーがわずかだがモデルAを抜いたのである。
そのタイミングでフォード本社がV8搭載のモデルBを投入したのであるからフォード・ジャパンが飛びつくのは当然の話であったと言える。
だが、それこそ総一郎の狙いであったのである。




