V8の時代
皇紀2592年 9月5日 帝都東京
大日本帝国において官民が共同で統制型エンジンの開発に舵を切った頃、アメリカ合衆国でも自動車産業におけるイベントが発生している。
アーリーフォードV型8気筒の登場である。
主力車であるA型フォードにV型8気筒エンジンを搭載した最初のモデルが登場したのは32年の4月のことであった。この頃、フォードは世界恐慌の影響もあり深刻な収支の悪化に喘いでいた。無論それは経済の低迷という側面もあるが、ライバル企業の新型車投入によって自社製品が見劣りするようになったことも理由に挙げられる。
米国製大衆車は従来直列4気筒を主流としていたが、20年代後半以降、シボレーやエセックスが中級車並みの直列6気筒を導入し、これが市場で好評となりフォードの苦境が深刻化すると創業者であるヘンリー・フォードはこれに対抗するために高級車向けのエンジンレイアウトであるV型8気筒を投入することを決意した。
ヘンリー・フォードの決断の背景にはキャデラックやリンカーンの強力かつ洗練されたV型8気筒エンジンに対する強い憧憬があったと言われているが、フォードの内実を考えるとなりふり構っていられない状況であり、一刻も早く強力かつセンセーショナルな新車投入をしなければならなかったかったのである。
だが、フォードはセンセーショナルな新車投入というそれだけではなく、量産にも適応した堅実な作りのエンジンを設計しただけでなく、生産設備までも大幅に改変し複雑なV型8気筒エンジン用エンジンブロックを一括加工可能である効率的な工作機械、組み立て機械を導入したのである。
設備一新の効果は歴然であった。従来の直列4気筒エンジンの生産コストに比べてV型8気筒エンジンの生産コストは遙かに低廉となり、そのまま利益率向上に貢献することとなったのである。また、削り出しや鍛造品の使用部材が減少し、鋳造品の多用が可能になり生産性の向上著しくなった点も技術的進展として見逃せなかった。
史実と同じであったのはここまであった。この世界ではフォードのV型8気筒エンジンは初期不良に悩まされることはなかったのだ。一刻も早く投入するという要求があったのは事実であるが、史実よりも早くV型8気筒エンジンへのアプローチを行っていたのだ。この取り組みによって熟成されたタイミングでの投入が可能となっていたのである。
多発したオーバーヒートしやすいなどのトラブルは冷却性能の見直しを行い加工精度についても新技術投入ということもあり研究と改良を怠ることなく行った結果だと言えるが、これが可能になったのは実はフォード単体によるものではなかったのである。海を越えた大日本帝国という取引先・市場の動向が大きく影響を与えていたのである。
有坂・フォード会談で本格的に日本へ進出したフォードであったが、日本の自動車需要の急増によって生産設備の日本への移転、それに伴う本国工場の設備刷新という史実にない動きが大きかった。
史実では本国工場で各部材の製造を行い、それを日本へ輸出し、日本工場で組み立てをするというノックダウン生産を行っていた。しかし、この世界では旧式化著しいフォードの製品でも構わないから日本国内生産として欲しいと有坂総一郎の周旋が功を奏したのである。日本に生産設備が移転することでアメリカにおける生産設備が更新出来ることで新型車の投入や新技術への対応が出来ると説得されたことにヘンリー・フォードが賛意を示したのだ。
総一郎にとってはタダ同然でフォードの旧式ではあるが生産設備を手に入れ、量産化に最適なシステムを一式まるごと手に入れることに成功したのである。システムを手に入れることで、海外へ目を向けることが困難な日本国内の財界や官僚、軍人の意識を無理矢理にでも変えることが可能になったというわけだ。
文献やレポートなどで知識として知るのではなく、目で見て理解させることが出来るフォード式生産システムはまさに百聞は一見にしかずというべきモノで、元々量産意識の高かった中島飛行機や川南工業、理研グループはもとより財界から多くの研修施設としてフォード・ジャパンは生産力向上へと役立つこととなる。
こういった経緯もあり、設備刷新効果があったため史実よりもフォードが充実することになったのだ。この時点でフォード製自動車用V型8気筒ガソリンエンジンは排気量3.6L、90馬力という水準のモノとなり30年代後半と同じ性能を発揮している。




