宴の後
皇紀2592年 8月15日 アメリカ合衆国 ロサンゼルス
参加国が少なく盛り上がりに欠ける中で開催された32年ロサンゼルスオリンピックだが、開催国のアメリカ合衆国が大量の金メダルを獲得し終幕した。
だが、アメリカが獲得した金メダルそのものに参加国はさしたる興味を示すことはなく、その注目を集めたのは大日本帝国代表団であった。
男子競泳は、日本勢が400メートル自由形をのぞく5種目を制した史実と違い、完全制覇を成し遂げ他国を寄せ付けない圧勝を決めたことで世界の日本代表団を見る目が変わったのだ。
船中で発生したインド人による日本人差別という屈辱を実力で見返したのである。彼ら日本代表団にとってはこのオリンピックは”人種戦争”だった。欧米人に見下されるのはある意味では慣れていたが、同じアジア地域に属するインド人にまで見下されるということは内地に住む日本人にとっては衝撃的な事実であり、何が何でもインド代表団”如き”に負けるわけにはいかなかったのだ。
インド”如き”に負けることは許されないと自覚を持った彼らだったが、一人の選手の言葉が更なる闘争心に火をつけることとなった。
「インド人”如き”ではなく、列強指折りの海軍国である我が国が水泳で引けを取るなどあってはならない。全勝する気概で事に当たるべきではないのか?」
彼の言葉が水泳選手たちには重くのしかかったが、自分たちが背負っている期待を考えればそれくらいは為さねば国に帰れないと思い至る。
結果、完全制覇し圧勝という形になった。史実でも結果が出ていただけに政財界の支援もあって練習環境が整った日本代表団にとってはある意味では当然の結果だったのかもしれない。だが、その完全勝利は彼ら自身を鼓舞することだけでなく、世界中を熱狂させるに至るのであった。
水泳競技の完全勝利で気勢を上げる日本代表団はその後に続く競技でメダル圏内に属し、金メダルを取れずとも銀メダルと銅メダルの量産を始めていたのだ。
そして大会最終日、遂に花形競技である馬術競技となった。
グランプリ障害飛越競技において男爵西竹一陸軍中尉が金メダルを獲得し、最高潮となった。続く総合馬術競技耐久種目において城戸俊三中佐は愛馬の消耗によって障害を飛び越えることが出来ないため棄権したが、その時に愛馬を労わるように撫でていたその姿が動物愛護団体によって称賛され翌日の新聞でも金メダリスト”バロン西”とともに各紙で称揚されたのである。
こうして存在感を見せつけた日本代表団にとっての”人種戦争”はメダルの数では負けたものの完全勝利と言っても良い結果を残したのであった。各メダル獲得総数37個とアメリカの87個に次ぐ結果を示したことでスポーツの世界でも負けていないと証明したのである。




