金剛代艦<2>
皇紀2592年 6月13日 帝都東京
金剛型の改装後の仕様が決まったことで軍令部は戦時における作戦計画を全面的に改正することとなった。また、30年を目処に金剛型4隻の改装が終了し再就役することとなり、32年には長門型と伊勢型の改装が終了する方向となっていた。
伊勢型に関しては30年のロンドン軍縮会議においてイタリアと建造枠と引き換えに交換することが決まり、建造途中で41cm砲への換装計画は白紙となったが、長門型はそのまま41cm砲の3連装砲塔化と機関出力向上、バルジ増設と史実で断念された改装をさらにバージョンアップさせることに成功していたのだ。
結果、機関出力の増強の成果もあり41cm3連装4基12門搭載、機関出力16万馬力、計画速力27ノットというものになった。連装砲塔のままであれば計画速力は30ノットだったが、軍令部は速力よりも砲戦力の拡充を優先であると主張したのである。
また艦内容量が艦体延長・バルジ増設などで出来たことで発電能力の強化が可能となり、艦内電力の余裕が生まれたのである。
旧扶桑型であるイワン・ニコライ、伊勢代艦は長門型と同様に機関出力16万馬力、27ノットといった共通仕様であり、中速戦艦の標準仕様が定まったのである。
帝国海軍は軍縮会議の条文にないことを良いことに改装後の排水量増大を気にも留めず基準排水量4万5千トン、満載排水量5万トンという著しい戦力増強に打って出たのである。あくまで軍縮の縛りがあるのは新造戦艦のそれであり、既存艦の改装に関しては一文もないことを盾に大改装を始めたのだ。
帝国海軍の既存艦大改装に英米が黙って見ていたわけではなかったが、英米ともに大恐慌の真っ最中であり、特にアメリカは緊縮財政を取っていたこともあり既存艦の改装には消極的であった。アラスカ級戦闘巡洋艦の建造が例外だったともいえるだろう。
また、現実的な問題としてアメリカの既存戦艦の一部はタービン艦ではなくターボエレクトリック艦であることもあり、機関換装が容易ではなかったこともあった。そして、問題はアメリカがタービン技術で日英に比べて一歩立ち遅れていたこともあり積極的に機関換装を行える状況でもなかったのだ。
こういった事情からアメリカは既存艦の改装に消極的であり、結果として量的には兎も角、質的には日米の戦艦の実力差は少し埋められていたのだ。
大英帝国はインヴァーゴードン反乱の発生によって海軍内部に問題を抱えていたこともあり、それどころではなかったともいえる。この「反乱」と呼ばれている「ストライキ」の原因となったのは、政府による支出削減のための新計画であり、マクドナルド政権によって推進された緊縮財政は超巡の建造で沸き立っていた王立海軍に冷や水を浴びせた形となり、給与削減や士官の数的削減といったそれによる反政府ストライキに繋がったのである。
これによってマクドナルド政権もまた態度を硬化させることとなり、既存艦の改装などという話が出来る状態ではなかったのだ。
そして、軍縮会議の煽りでお蔵入りになったN3型戦艦やG3型巡洋戦艦の研究資料などがストライキの首謀者たちによって持ち出され、そのままソヴィエト連邦へ亡命することによって流出するという事態に陥ったのである。
当の大英帝国はこれにそれほど危機感を示すことはなかったが、直接ソ連と向かいあう日本にとってはそうも言っていられなかった。
超巡への手当てをしなくてはならなかったこともあり、金剛型は決戦用ではなく、護衛用・蹂躙用に用途を振り切ったが、G3型巡洋戦艦の情報流出はオホーツク海やベーリング海、北太平洋におけるソ連海軍艦艇の跳梁跋扈へとつながりかねないと危機感を募らせることになったのである。
これによって金剛代艦の仕様決定で迷走が始まったのである。




