金剛代艦<1>
皇紀2592年 6月13日 帝都東京
大日本帝国海軍は伊勢代艦の次に金剛代艦を計画している。
金剛代艦が先だろうと思うかもしれないが、伊勢代艦が先なのだ。これはイタリアとの協定の結果であり、艦齢ではなく、建造枠の交換によるものだからだ。よって、この世界においては伊勢代艦が先に建造されることとなり、金剛代艦は33年以後の建造開始を予定している。
これは伊勢代艦と違い、明確に列強に対して公表の上で建造を始めるものである。伊勢代艦は実質的には第3世代戦艦と言えるものであり、現在の長門型以後の第2世代水準の系譜に属する戦艦ではないのである。
要目こそ八八艦隊計画の一案を流用したものだが、技術水準の向上によってその立ち位置は実質的な第3世代であり、本格的に帝国海軍が今後建造する戦艦のプロトタイプともいうべきものだったのだ。
3番艦、4番艦はまだ建造開始していないこともあり、今後、列強の動きや新技術の導入により要目が変更され第3.5世代戦艦に進化することも考えられていたのだ。だが、その反面、列強に先んじて建造を始めたこともあり、後続の列強第3世代戦艦に性能で追い抜かれる可能性もあった。
よって、列強の戦艦建造を第2世代戦艦に抑え込む必要があった。それが金剛代艦である。
帝国海軍において艦政本部、軍令部、連合艦隊は次世代戦艦についての展望、技術的課題、現場からの要望、ドクトリンが盛んに議論され、八八艦隊の時に構想された高速戦艦による砲戦位置の優位性確保というドクトリンは基本的な考え方そのままに出来るだけ速力の優位性を望まれたが、その中で30ノット前後の高速性能が必要であるのか真剣に議論されると意外なことに26~28ノット付近で十分ではないのかと意見が大勢を占めた。
この議論は八八艦隊建設が断念された時点で行われ概ね28年ごろまでに結論が出ていた。金剛型の近代化改装は当初26ノット台と史実における第一次改装と同水準を見積もっていたのであるが、27年のジュネーヴ軍縮会議の席上において大英帝国が比類なき屈強な巡洋艦をぶち上げたことで帝国海軍は危機感を強めたのである。
準戦艦ともいえる超巡洋艦の想定される速力は30~35ノット台であるのは間違いなく、その場合、水雷戦隊などの先鋒打撃戦力へ深刻な脅威となることが帝国海軍に衝撃を与えていたのだ。
特にワシントン軍縮会議による戦艦戦力の制限は海戦における砲戦力の劣勢を決定づけたこともあり、戦艦以外で敵艦隊に打撃を与える必要が迫られた。そのため、帝国海軍は水雷戦に着目し、これを海戦の主軸に据えたのである。
そう、酸素魚雷の開発の原点である。
その必殺の酸素魚雷の開発途中で出現した超巡は機動水雷戦の前提条件を覆しかねない衝撃だったのだ。その出現時点で軽量、中威力、高速の超巡に対抗出来る戦力は帝国海軍には金剛型くらいなものであった。
当然、金剛型の改装計画はいったん白紙撤回され、搭載予定だった機関の見直しがすぐに行われ、新型の艦本式タービンを搭載、ロ号艦本式重油専燃缶8基、機関出力14万馬力、速力30ノットの史実第二次改装と同様の要目に変更されることとなった。
艦政本部は無難にその性能をまとめたが、そこに軍令部が介入することになるのであった。
「41cm砲に換装することを考慮に入れたい。機関出力の更なる増強を図りたい」
彼らの言い分はそういうモノだった。
従来の45口径四一式35.6cm連装砲ではなく、45口径3年式41cm砲に換装するという要望に折角まとまった仕様の変更と準備工事を行うという難題に突き当たった艦政本部であったが、彼らはその無茶な要求を何とか実現させることに成功したのである。
元々、金剛型は英戦艦エリンを基に設計されていたこともあり後部甲板に砲塔3基を設置するスペースが存在していた。実際には2基しか使っていないことで1基分のスペースがあったことから多少の艦内スペースのやりくりが必要ではあったものの機関区増設を可能にしたのである。
結果、ロ号艦本式重油専燃缶10基、機関出力16万馬力とし、主砲換装前は計画速力32ノットというものになったのである。主砲換装後は計画速力30ノットということで合意が得られ、工事が再開されたのである。
ここに帝国海軍における戦艦の運用方法が変化し、高速戦艦と中速戦艦という二本立てとなったのであった。




