伊勢代艦<2>
皇紀2592年 6月13日 帝都東京
伊勢代艦……史実には存在しなかった艦が建造を開始した。
史実において金剛代艦が議論の俎上に載ったのは28年に岡田啓介海軍大臣へ条約下における兵器を研究する軍備制限研究委員会が纏めて提出した報告書によるものだった。
ワシントン軍縮条約によって艦齢20年を経過した戦艦の代艦建造が可能と定められ、その基準に金剛型が33年に達することからこれに合わせて艦政本部などが計画案が纏めていたのだ。
条約の定める基準排水量3万5千トン、主砲16インチ以下という条件によって新世代を戦艦を海軍省及び軍令部が要望したのは必然だったと言える。
だが、実際にはロンドン軍縮会議において戦艦建造禁止期間をさらに5年間延長することが決定され、建造されることなく、その建造案や仕様などが将来の次世代戦艦建造に役立てられることとなった。
さて、この世界でも似た様な動きが存在し、代艦建造の時期は迫っていた。そして、30年のロンドン軍縮会議はワシントン軍縮会議同様に史実とは異なる様相を見せ、戦艦の拡散という結果になった。また戦艦の建造禁止期間を1年間延長することなり、次回軍縮会議で今後の主力艦について協議することが決まった。
次回会議を予定していた31年は欧州動乱によってそれどころではなくなり、軍縮会議そのものが実質的に流れてしまったのだ。
そして、31年5月に建造禁止期間満了を迎えてしまったが軍縮会議が開催されることなく、列強各国は表向きは目立った動きを示さなかったが旧世代戦艦の更新に備えて水面下での建造計画が進行し始めていた。
列強の承認の下で既に建造を開始していたイタリアは順調に新世代戦艦の建造を進め、艦体が出来上がりつつあるところまで来ていた。しかし、それ以外の列強は超巡規格の建造を行うにとどまっていたのだ。
これらの動きの中で大日本帝国海軍は順次既存戦艦の改装を進め、金剛型の改装をまずは終え、史実の第二次改装時点とそれほど違わないものに仕上げていたのである。これらを欧州へ派遣する中で、長門型の改装が31年年末に終了し、伊勢型の改装が32年夏に終わるというスケジュールであった。
伊勢型の譲渡が遅れていたのは改装を行っていたこともあるが、ロンドン軍縮条約の1年間建造禁止期間延長というそれを配慮することでフランスを刺激しないという意図もあったのだ。
だが、ロンドン軍縮会議から2年間経過したことでほとぼりも冷めたと解釈し、地中海において最も有力な戦艦に生まれ変わった伊勢型をイタリアに譲渡することで代艦建造枠の行使と金剛型の代艦建造を始めるべく動き出したのだ。
イワンとニコライが出現したのも列強がどう動くのか揺さぶりをかける意図もあったのである。仮にイワンとニコライを戦艦認定するのであれば、代艦建造枠をこれに充てることにしようと考えていた。
幸い、列強は12インチ砲という公式発表を鵜呑みにしたこと、日本の超巡建造枠の制限を掛けようとを意図したこともあり戦艦枠の消費ということには至らなかった。これにはアメリカと欧州の見解の相違が大きく影響したのは間違いない。
戦艦代艦枠の消費することがなくなりそうだと判断したことで当面は建造を秘匿したままで一定期間経過後に建造の事実を公表する方向で建造を始めたのが今回の伊勢代艦である。
伊勢代艦の主な要目は以下の通りである。
全長:240m
全幅:35m
基準排水量:4万2千トン(計画値)
主砲:45口径41cm砲3連装4基
副砲:50口径15.2cm砲3連装4基
高角砲:40口径12.7cm連装6基(艦首及び艦尾に合計6基増設準備工事済み)
機銃:39口径40mm4連装6基
主機:艦本式タービン4基4並列配置/スクリュー4軸/ボイラー16基
出力:16万馬力
1番艦:紀伊
2番艦:尾張
3番艦:駿河
4番艦:常陸
※艦名は仮称
この意図的な艦名から特徴的な渾名が発生することになるが、それは別のお話。




