伊勢代艦<1>
皇紀2592年 6月13日 帝都東京
列強各国の水面下での駆け引きは続き、結果としてイワンとニコライの2隻は3万トン台の超巡洋艦という扱いになった。
元々、大日本帝国海軍が超巡洋艦の建造を行っていなかったこともあり、巡洋艦枠6万トンを消費したという扱いで譲渡保有することと決したのだ。
英米にとって大日本帝国の衛星国である正統ロシア帝国が戦艦もしくは超巡洋艦を有することは望ましくなく、従来の旧伊吹型の2隻の保有すらも本来は望ましくはないと内心は思っていた。
大英帝国にとって大日本帝国海軍と同様に正統ロシア帝国海軍が東シナ海の制海権維持に役立っていることは認めざるを得ず黙認していたが、これ以上の帳簿外戦力が増えることは阻止したかった。そして、アメリカ合衆国にとってもそれは同様であり、軍縮条約の枠外にある有力な艦艇を大日本帝国が実質的に自国の戦力に組み込むことだけは阻止したかった。
大英帝国の思惑とアメリカ合衆国のそれは合致したことで、大日本帝国への移籍と国際協約による管理枠へ押し込めることで極東のパワーバランスの維持のために正統ロシア帝国による保有を絶対に認めないと強調したのであった。
英米が結託したことで大日本帝国は不利な立場に立っていたかのように見えてはいたが、海軍大臣大角岑生大将は秘策を胸に全権特使として東京会議に登壇したのである。
「我が大日本帝国は先の条約会議においてイタリアと約した伊勢型戦艦2隻の譲渡を正式に発表する。近く伊勢型2隻の改装が済み出渠する予定であり、出渠後の公試が終わり次第、イタリア海軍へ引き渡すものである」
大角の表明はそれほど目立つものではなかったが、実質的に戦艦に相当する戦力であるイワンとニコライの2隻を有することもあり差し引きゼロという印象を持たせることに成功はしていた。
だが、そこで重要なのは30年のロンドン会議で戦艦の建造禁止期間を延長していたが、禁止期間を終了していたあともフランス側の懸念により伊勢型の譲渡を保留することで実質的に自動延長した形になっていたことの確認と譲渡することで代艦建造が可能になったことを言外に明言したことである。
既に大日本帝国海軍は伊勢代艦の建造を呉海軍工廠と横須賀海軍工廠で秘密裏に始めていたのであるが、イワンとニコライという擬装をした実質的に新造同然の魔改造扶桑型をモデルに基準排水量4万2千トン、45口径41cm砲主砲3連装4基、16万馬力、28ノットというものであった。
建造がある程度進んだ段階もしくは列強に感づかれた時点でイワンとニコライの準同型艦という扱いで公表するということで大日本帝国海軍上層部は腹積もりをしている。建造を秘匿する意味でも伊勢型2隻の改装は目くらましとして役立っていた。
呉海軍工廠に隣接する形で建設された製鉄所がフル操業状態になっていることは米英の諜報活動で気付かれてはいたが、折しも急ピッチで改装工事が進められた伊勢型や長門型の鋼材確保のためのものであると偽装がされていたのだ。
伊勢型、長門型ともに船体切断、艦体延長、機関換装と大工事を行うことを大々的に発表していたこともあり呉海軍工廠、横須賀海軍工廠ともに資材や鋼材の運び込みが急増していることは広く知られていたのだ。
こういった情報管制によって伊勢代艦の建造は気付かれることなくスタートしたのだ。そして230m台の大型潜水母艦の建造というダミー情報を流したことで大型の艦艇が建造されてもその一環であると錯覚させように念の入れようであった。
この時にでっち上げられた大型潜水母艦建造は3隻分が予算計上され、また、大型巡視艦という架空の艦種がでっち上げられていたその数4隻、名目は本土近海の領海パトロール母艦というものだった。
無論、これだけでは到底戦艦の建造費用として不足するため海軍省は意図的な帳簿改竄と架空予算計上によって建造費用を色々なところから捻出していたのである。
政府、国民、そして列強の目を欺き建造が開始された伊勢代艦は35年の竣工を目指しているが、その建造にはブロック工法や電気溶接など多くの新機軸が採用されている。それらは川南工業によって実用域に達した技術を海軍側がさらに熟成させていたものである。
特型駆逐艦など20年代に建造された電気溶接を用いた艦のそれとは異なり技術的熟成度の違いがあることで後年に発生する事故や船体破断とは無縁である。尤も、それがわかっているのは平賀譲中将と大角、そして川南豊作くらいなものである。




