後始末
皇紀2592年 5月27日 帝都東京
イワン・ニコライ問題を討議するために帝都東京で国際会議が行われている中でのテロ事件は列強に日本の政治情勢に疑問符を抱かせることとなったが、速やかな解決で列強の帝国政府への不安視はそこまで深刻なものにはならなかった。
だが、帝国政府はテロの温床になったアジア主義に危機感を覚え、アジア主義を標榜する政治団体への監視の実施をすぐに行う様に内務省に指示を出し、同時に陸軍省経由で憲兵隊に軍部の不穏分子摘発を命じることとなったのである。アジア主義は広く受け入れらた主義思想であることもあって、厳密に不穏分子として取り扱うことは難しいが、帝国の国策と相容れないものであっただけに放置は出来なかったのである。
問題は海軍であった。海軍大臣大角岑生大将は海軍将校が関与していた事実から人事権を発動し、アジア主義と親和性が高いと判断される高級将校の予備役編入、配置転換の実施を即日命じることとなった。
内務省と憲兵隊はアカ狩りと同じく扇動家として多くのアジア主義者をマークし、その中でも血盟団と関わりがあった者たちを片っ端から逮捕し始めたのである。これによって血盟団の残党はその尽くを逮捕されるに至り完全に壊滅したのであった。
しかし、裏付けを取ることが出来ずアジア主義者で資金源や武器の供給源と疑われた一部の大物は逮捕することが出来なかった。だが、アジア主義者たちが表立って活動出来なくしたことは大きな成果だったと言っても良かった。
特に帝国議会において普段アジア主義を唱えて支那人や朝鮮人との協調、アジア人として欧米との対決姿勢を主張していた議員は真っ先に取り調べの対象となり、犬養毅が複数回血盟団の構成員と会合を持っていたことから事情聴取の対象となり、取り調べの結果、騒擾罪で後に起訴される方向になったのだった。
事件後に政界におけるアジア主義者は皆揃って欧米協調・支那強硬路線へその主義主張が変化したことは言うまでもない。アジア主義結社に属していた者たちも脱退もしくは縁切りを行い、身の潔白を示したのである。
それどころか、野党政友本党では犬養とともに与党立憲大政会と対決姿勢を示していた鳩山一郎が真っ先に犬養を売ったのである。自分たちに火の粉が掛からないようにと火元を叩くことで保身に走ったのだ。これが決め手となり司法は犬養を5・15事件の首謀者格として扱うことになったのだ。
この鳩山一派の行動を世間は「さすがは風見鶏」と揶揄するとともにその変わり身の早さに舌を巻いていた。これによって政友本党の鳩山指導体制はより強固なものとなったのである。




