5・15事件<2>
皇紀2592年 5月15日 帝都東京
史実において犬養毅は同じアジア主義を信奉するはずの存在によって始末されたと言える。だが、この世界では少々事情が異なる。
犬養は総理の座に就いておらず、高橋是清が長期政権を担っているのだ。犬養は野党政友本党に属し、同じく鳩山一郎とともに冷や飯を食わされている状態なのだ。
加藤高明内閣時に引き起こされた統帥権問題で原因となった幣原喜重郎を罷免した時以来、大日本帝国政府は一貫して欧米協調外交、対支那強硬外交を打ち出していた。
これによって割を食ったのが外務大臣を罷免された幣原や万年野党と化した犬養や鳩山らであり、彼らは復権のために色々と画策していたが政治的な失敗の連続、若槻内閣、高橋内閣と高い経済成長、好景気、無難な政治運営ということもあり全く反撃のタイミングを掴むことさえできていなかった。
幣原とも関係の深い三菱ですら政治的には幣原と距離を置くことになったのは彼にとっても大打撃だったと言える。三菱にとって縁戚であることは大事ではあるが、帝国政府の方針は欧州列強とともに満州・支那・朝鮮からの収奪を強化するものであったことから斬り捨てざるを得なかったのだ。
後ろ盾を失った幣原は実質的には隠退を勧告されたも同義で失脚以後は貴族院議員としての職務を全うしていた。
だが、アジア主義者と強いパイプを持つ犬養は違った。彼はヤジ将軍こと三木武吉によって帝国議会で尽くその面子を潰されてきたこともあって反撃の機会を窺っていたのだが、玄洋社の頭山とともに血盟団がことを起こすに手を貸すことにしたのだ。
アジア主義者たちは帝国政府の満州、朝鮮の支配方針に反発するとともに、手を携えて列強への対抗に尽力すべしと唱えていたが、議会も財界もそれを一顧だにしなかったこともあり、政党政治への失望と反発へと繋がっていったのである。
やがて軍に期待をしていくが、軍部、特に陸軍は帝国政府の方針に一切の不満がなく、それどころか、政財界と深く関係を築いていたこともありアジア主義に傾倒する不穏分子を秘密裏に処理していたこともあって全く靡くそぶりを見せなかったのである。結果、海軍の不穏分子を取り込むことで実行部隊として組織することに至ったのである。
表向きは犬養は一切関与していないように装っていたのだが、持てる情報を提供することで要人たちの警備の隙をついて血盟団に行動を起こさせるように仕向けたのであった。こうして水面下での共闘という名のそれぞれの立場で利用し合う関係が成立したのであった。
そして、5月15日……。総理大臣官邸、海軍大臣官邸、外務大臣官邸、閣僚私邸、有坂家市ヶ谷本邸が早朝から襲撃を受けたのである。
海軍大臣官邸を襲撃したのは海軍航空将校3名が率いる大陸浪人と血盟団員10名であったが、横須賀海軍陸戦隊の完全武装1個分隊が待ち構えていたこともあり、あっという間に制圧された。
総理大臣官邸へ向かった海軍将校5名と大陸浪人、血盟団員15名は歩兵第1連隊から急派されていた完全武装1個小隊の警備が行われていたこともあり、同様に鎮圧され、首謀者の海軍将校が捕虜となり実質的にはこの時点でテロ事件は完全に失敗していた。
外務大臣官邸や閣僚私邸に向かった襲撃部隊はいずれも目標を捕捉出来ずにすぐさま退去、総理大臣官邸襲撃部隊へと合流を図ったがその時点で出動命令が下った歩兵第1連隊などに捕捉され鎮圧されている。
さて、市ヶ谷の有坂邸襲撃部隊はどうだっただろうか?
彼らは有坂邸に踏み込むと悪逆非道な政商有坂総一郎に天誅を下さんといきり立って押し入ったが、元々周囲を高い壁が囲っていることから進入路が限られ、玄関ホールから進まざるを得なかった。
玄関ホールに襲撃者たちが侵入すると彼らの四方を囲むように鉄格子が床からせり上がり外で警戒に当たっていた2人を除いて全員を閉じ込めてしまったのである。何が起きたかわからず呆然としていた襲撃者たちは駆け付けた歩兵第1連隊の兵士たちに取り押さえられそのまま連行されていったのであった。
「5・15の準備をしていないわけないだろう……」
全てが終わった後に総一郎はそう呟いたのであった。




