帝国の休日
皇紀2592年 5月連休 帝都東京
27年の帝国議会において鉄道省は5月付近に大型連休を作ることを提案し、天長節である4月29日から概ね1週間程度を祝祭日として充てることとなった。
元々大正年間に公布施行された勅令「休日ニ関スル件」が存在し、元始祭(1月3日) 、新年宴会(1月5日)、紀元節(2月11日)、神武天皇祭(4月3日)、神嘗祭(10月17日)、新嘗祭(11月23日)、春季皇霊祭(春分日)、秋季皇霊祭(秋分日)と天長節・先帝祭・明治節の3日が適用されていた。
例えば32年であれば4月29日の天長節と4月30日~5月8日までを帝国臣民の休日として行楽遊興へ出掛けることを促すというものだった。
無論、これは鉄道省がジャパン・ツーリスト・ビューローや内地私鉄、南満州鉄道、北満州鉄道、朝鮮総督府鉄道、台湾総督府鉄道、樺太庁鉄道と組んでの一大旅行促進キャンペーンであることは言うまでもない。
世界恐慌が起こることは有坂一派にとっては既定路線であったため、外国人観光客の流入を期待するのではなく、従来の内需拡大をより一層奨励する意味合いで大型連休をこの時期に設定し、需要創出と運賃収入の拡大を見込んだのである。
この法案提出はすぐさま帝国議会において決議され、即日公布施行となり27年中からすぐに運用されることとなったのだ。これは前年の大正帝崩御という国内の自粛ムードを払拭する狙いがあった。
当初は国粋主義者や右翼から不謹慎であるという声が上がったが国民にとっては休暇が増えることは歓迎であり、また過ごしやすい5月にまとまった休みがあることは出掛けやすいものだった。
以後、鉄道省は従来の伊勢参拝ツアー、出雲参拝ツアーなどに力を注ぎ、東京駅からの直通列車を増発するなど輸送力の拡大とサービスの向上で対応し、関東私鉄は箱根、熱海、日光、草津など帝都から日帰り圏内のツアーを拡充し、提携ホテルや旅館を利用する場合に割引などを行うという囲い込みに出た。特に小田急は湘南・鎌倉・箱根への波動輸送に注力し、東武は日光線開業によって団体客を日光へ誘致することで日光東照宮と周辺温泉の周遊を狙っている。
関西私鉄は大軌・産急グループは伊勢だけでなく、橿原、奈良、京都という自社ネットワークを駆使した周遊切符で鉄道省に対抗し、京阪・新京阪グループは京阪間のノンストップ特急や琵琶湖を利用したレジャーを提案していた。阪急は従来通り、箕面や有馬の温泉、宝塚歌劇団への輸送に注力し、阪神は意外なことに特に何もしていない。
鉄道およびレジャー系以外でも実は関係しているものも存在していた。
そう、農林省と陸軍省である。
農林省は横浜競馬場において32年に4歳2000m競争「農林省賞典皐月賞」としてレースを創設したのである。史実では39年に「横浜農林省賞典四歳呼馬」芝1850mとして開催された皐月賞がそれを遡って創設されたのであった。
史実でも32年には日本ダービーとして知られる東京優駿が創設されている。「東京優駿大競走」目黒競馬場の芝2400mであった。同じく、史実では38年に「京都農林省賞典四歳呼馬」京都競馬場芝3000mとして創設された後の菊花賞も、同じくこの32年に創設されたのだ。
所謂三冠レースが同時に創設されたのは純粋に農林省と陸軍省、そして東京競馬倶楽部など馬主・産馬業者の思惑の一致に他ならなかった。この一致は偶然でも何でもない。そこにはやはり有坂総一郎の意志が介在されていた。
「最も速い馬、最も運のある馬、最も強い馬……それらを輩出するためにはそれに相応しいレースが必要だ!」
総一郎が有坂邸謀議で突然言い出したのは東京競馬倶楽部会長の安田伊左衛門がイギリスのクラシック競走であるダービーステークスのような高額賞金の大競走を設けて馬産の奨励することを構想していること知ったことからだった。
この時、謀議に参加していた東條英機少将は顔を歪めて発言を控えていた。彼のトラウマに直接かかわることだったからだ。ドイツ留学時に競走馬の予後不良に対する安楽死を見てしまった彼はそれが余りに残酷なものであったことからそれまで熱心に競馬観戦をしていたそれをやめ、軍馬の研究をやめてしまったのだ。
「我が国の馬は欧米の馬に比べて弱い。それはやはり血の交配ということもあるだろうが、純粋に強い馬を生み出せる環境にないのが大きい!」
そう言い始めた総一郎を止める者はいなかった。実際問題として陸軍側にとって軍馬の問題は避けることが出来ないものであった。そして、農林省としても産馬業者の奨励は省益においても重要であったのだ。
「では、どうするのだい?」
たまたま上京していたことで参加していた川南豊作は興味深そうに尋ねるが、彼は概ねこの時点で何を考えていたのか推測出来ていた。
「農林省を一枚噛ませることで賞金を確保して……レースを2つでっち上げる。安田さんがもう一つのレースを準備しているのだから、農林省主催レースをその前後に設置する……あとは陸軍省と財界から賞金を出すレースを2つか3つ設置して5大レースを目指す」
「だが、年10回の帝室御賞典があるではないか?」
「帝室御賞典は整理して年2~4回程度にまとめることでレースの質を上げ、より強い馬、より速い馬だけを出走させるという方向でどうでしょう? 賞金や賞典に関してはまとめた方が効果的でしょうしね」
総一郎はそう言うと競馬の開催ロードマップをテーブルの上に広げて興奮気味にさらに語っていったのであった。
こうした根回しが功を奏して32年に三冠レースと春・秋の帝室御賞典、陸軍省賞典大阪杯、陸軍省京都杯、阪神杯、武蔵野杯といった10大レースが整備されたのであった。




