アメリカの一人負け<2>
皇紀2592年 4月30日 アメリカ合衆国 ワシントンDC
史実と異なり、日英印の関係は変化が生じたのであった。
アメリカ商務省の対日嫌がらせによる輸出制限があり、アメリカ綿の買い付けは史実と異なり非常に低調であり、良質な綿だけでなく低品質なそれすら日本に輸出されることは非常に少なくなっていた。
日本の紡績業界は供給量と品質で圧倒的シェアを誇るアメリカ綿の輸入を諦めるとすぐさまインド綿の買い付けに動くとともにエジプト綿やペルー綿を根こそぎ抑えるという行動に出たのである。エジプト綿はアメリカ綿に次いで優良綿であることから多少割高になろうとも生産性の向上でカバー出来ることから代替品として重宝することとなったのだ。とは言っても、それだけでは原料供給の面で不安があることから綿立枯れ病から立ち直りつつあるペルー綿を抑えることで不足する分を補ったのだ。
インド綿は繊維が太く短いことから強度面でアメリカ綿やエジプト綿、ペルー綿に劣ることもあり、主力としての買い付けにはならなかったのではあるが、それでもコスト増大につながるエジプト綿やペルー綿を補う意味でも必要であった。
日本が積極的にインドから綿を買い付けることはそのまま日印貿易の活性化につながったが、イギリス本国にとってみれば植民地からの収益が増えて良いことではあったが、イギリス紡績業にしてみれば製造コストの増大となるだけでメリットは何一つなかったのだ。
28年、29年と連続でアメリカ綿は不作となるといよいよインド綿は逼迫することになる。イギリス紡績業はインド綿への依存度を大きく増すことになる。そうなると割を食うのは日本紡績業であった。補助的にではあったが重要な原料であったインド綿の輸入が途絶する状態を見過ごすことが出来なかった。
30年にはインド綿が不作となりインド政庁は対日輸出を渋る様になり、日本紡績業の危惧は現実のものとなったのだ。備蓄買い付けを行っていたこともありすぐに原料不足という事態こそ免れてはいたが、不作が続くことになれば干上がるのは目に見えていたこともあり、29年には日本紡績業は人造絹糸へとその主力製品をシフトするように志向し、鈴木商店系の帝国人造絹糸が大きく業績を伸ばしていたこともあり人造絹糸の生産拡大を目指した。
また、日本窒素肥料がドイツのベンベルク社と提携したことで31年に銅アンモニアレーヨンの量産を始めたことで人造絹糸と比べ耐久力や耐摩耗性などに優れている素材が流通するようになったのだ。
これら綿布に代わる素材の流通と登場はそのままインド綿の需要を押し下げることとなったのである。
無論、綿の需要そのものが低下しただけで不要になったわけではないため大日本帝国政府は満州と列強の影響力が大きい山東省の黄河流域に綿花増産を指導し、ここからの原料調達確立を目指したのであった。
また、朝鮮半島南部にも紡績会社直営であったりウクライナ系臣民が経営するプランテーションがいくつも設置されたのであった。朝鮮総督府にとっては半島南部は不毛地帯という認識であっただけに半島北部の鉱工業と同じように収益が出せるならばと奨励していたのである。
それらの効果は31年になると徐々に表れ始め、広大な綿花プランテーションを設置出来た黄河下流域や南満州のそれは品質こそ満足出来るものではないが収量はそれなりに確保出来たことから数年後にはインド綿の置き換えに役立つことが予見されたのであった。
イギリス紡績業と完全に競合しなくなったわけではないが、欧州向けの綿布輸出を減らしたことはイギリス紡績業にとって失地回復となったのだ。また、世界恐慌による需要低下で生産調整が行われた結果、余剰となったインド綿が再び日本に輸出されるようになったことで日英印における貿易摩擦は自然と収束していったのだ。
アメリカ国務長官ヘンリー・スティムソンが掴んでいた情報に日本がインド綿を大量に購入というのは単純に需要が減ったことで放出されたというだけであったが、アメリカからは劇的な関係改善に見えたのであった。
そして、日本紡績業が廉価販売をやめたことで自然とイギリス紡績業の競争力が回復し、結果として販売量が回復したのであった。無論、価格が上昇したことで日本紡績業は純利益が増えたという結果を生み出し、それによって新素材への投資がより増えていったのである。
アメリカは30年こそ綿花が平年並みに戻ったが、31年は再び不作へと逆戻りし、綿花供給のシェアを失うと同時に紡績業は綿布の競争力をも失ったのである。明らかにアメリカ綿布よりも品質の良い日本綿布やイギリス綿布が市場を席巻するのを指を銜えて見るしかアメリカ紡績業は出来なかったのだ。
いや、いくつかの紡績メーカーはこの一人負け状態を切り抜けていた。ウズベキスタンやトルクメニスタンで産出する綿花を用いてソビエト連邦領内で綿布生産を始めたのである。
ペルシア縦貫鉄道の建設という中央アジアにおける地政学的変化に対応するようにトランス・アラル鉄道(オレンブルク-タシュケント)の複線化をソ連は望んだのだが、オホーツク=カムチャツカ鉄道の建設に比べれば容易な工事であったこともあり、アメリカ企業団連合はあっさりとそれを成し遂げたこともありその見返りにコンソーシアムに参加していた紡績メーカーが進出することに成功していたのである。
結局、旧大陸でのメイクマネーが出来ないアメリカ企業にとって生命線はソ連と支那大陸となりつつあった。




