アメリカの一人負け<1>
皇紀2592年 4月30日 アメリカ合衆国 ワシントンDC
バサッと机の上にぶちまけられた書類を国務省の高官たちは手に取り目を通すと皆一様に顔色が青ざめた。
「ガッデム!」
「なんということだ! 何かの間違いだ!」
異口同音に彼らは口々に叫ぶ。
「諸君らの目には偽りに見えるようだが、悲しいことに事実だ。今頃商務省も焦っているだろう。だが、君たちや商務省が東洋のサルと嘲っていた彼らはより強かだったのだよ……」
国務長官ヘンリー・スティムソンは静かなる怒りの炎を燃やしつつも務めて冷静に言い渡すと高官たちに背を向け窓辺に向かうと溜息を吐く。
「日本における工業化の急速な進展は日英間に綿製品競争を発生させたのは諸君の良く知るところだ。そして、我々はそれが故に日英間の貿易摩擦となり、影響を受けるインドとの関係を含めて日英関係の隙間風になると考えていた……そうだな?」
スティムソンの問いかけに高官らは一様に頷く。
彼らの認識そのものは間違っていなかった。だが、事態は急変し彼らの知らない間に問題は解決しそれどころか日英関係を強固にしていたのだ。
「元々、日本のトヨダが世界初の自動織機を開発して以来、綿製品における我々欧米の優位性が失われたのは皆の知るところだ。日本では1人が8~40台の自動織機を受け持っているが、イギリスでは労働組合の力が強いこともあって精々が2台だ。それだけでなく、日本は深夜操業も行って24時間フル稼働である……つまり、一定品質を大量に生産することで廉価に流通させることが出来る様になった……それゆえにイギリスの綿製品は次第に追い詰められていったわけだ。我々も同様に追い詰められている……それも世界恐慌という未曽有の危機によって我々は相対的に品質と価格で太刀打ち出来なくなったのだ」
スティムソンの言葉は自分たちが日英関係悪化の根拠していただけに彼らの心中によく響く。
史実では24年の無停止杼換式豊田自動織機(G型)の開発によって生産量が増大し、同時に品質の向上が進んだことで一躍日本の綿製品は世界市場に大きく食い込んだのだ。29年に紡績業の深夜業が社会問題とされていたため、改正工場法が施行され深夜業が禁止となったことで紡績業界はハイドラフト精紡機やシンプレックス粗紡機などを導入して、生産合理化を進めたのである。
こういった事情のために生産性の向上、価格の低廉化、品質の安定という無双状態の日本紡績業の世界市場席巻は英米に大ききな打撃を与えたのである。
だが、それだけではなく世界の綿花の5割を生産していたアメリカが失速したのである。割高であるが品質の良いアメリカ綿花はその多くがアメリカとイギリスで消費されていたが、アメリカ綿花の不作と品質の低下は決定的なダメージをアメリカに与えてしまったのだ。
生産量とそれに応じた低価格、自動織機による安定した品質という武器を持った日本綿製品はこの機を逃すことなく、中低価格帯を綿製品最大手だったイギリスから容赦なく奪い去ってしまったのである。
高いのに品質が良くないアメリカ綿を使っていては太刀打ちが出来ないイギリスの紡績業はアメリカ綿の使用量を減らし、大英帝国に属するインドへその調達先を代替することを思いつくと割安なインド綿花を導入し、価格攻勢に転じたのだ。だが、これはインド綿花の価格向上につながり、やがて調達価格の面で優位性を失っていくのであった。
日本は同じくインド綿や品質の向上した他国綿、日本綿を使用することで同様に低価格で応戦することになる。
しかし、そこに待っていたのは32年のインド綿の不作であった。インド綿がアメリカ綿と同じ価格となり、イギリス紡績業は窮地に立たされることとなるのだ。日本はアメリカ綿の等外品や低品質綿を利用することで価格の優位性を確保するのであった。
だが、これがイギリスをさらに窮地に追い込んでしまったのだ。インド綿の窮地は日本のダンピングが原因であるとして関税引き上げを要求するとともにダンピング防止法を制定して日本へと適用するため33年に日印通商条約廃棄を日本に通告したのである。
そう、ブロック経済の始まりである。
「日本側がインド綿を大量に買い付けること、イギリス綿製品より割安で売らないことを水面下でケリをつけたのだ。無論、表向きは一切公表などないし、条約ではないから文書として残るものではない……そこに商務省のレポートがあるだろう? それには米英、そして日本の我がステイツにおける販売量と価格が図表付きで示されている。結果は我がステイツの一人負けだ……イギリスは日本の価格が上がった頃から右肩上がりになっている」




