AAR38とNMG11
皇紀2592年 4月30日 正統ロシア帝国
海軍に対して陸軍は大日本帝国陸軍の外人部隊と列強からは見られていたが、それは装備の共通性からくる誤解であるのは言うまでもない。
三八式歩兵銃を主装備としてその多くを当初は供与という形で手に入れていたが、32年春の時点では自前での供給が可能となっていた。供与された三八式歩兵銃は大日本帝国陸軍が八七式自動小銃に更新する過程で余剰となったものが中心であるが、その多くはある意味では廃品回収によるものであったと言えるだろう。
元々三八式歩兵銃は職人の手作りと言ってもそれほど間違いがないもので、互換性というモノが存在していない。シベリア出兵が終わった後に互換性のある量産規格品に切り替わっていったが、それまでに生産されたモデルは互換性のない一点物であった。性能は申し分ないが、整備時の互換性がないことによるデメリットが大日本帝国陸軍でも問題視され、内地留守部隊や中欧派遣軍などに配備されているものは後期モデルに統一されていた。
そして、国内で余剰となっていたのはこうした一点物時代の前期モデルだったのだ。これらを玉突きで正統ロシア帝国に供与することで装備刷新を図ったのだが、当然そのしわ寄せは正統ロシア側に発生してしまう。日本人とロシア人のものの考え方、尺度のずれがそこで大きな問題を引き起こしたのだ。
大事に扱い、整備を適切に行うことで何ら問題を発生させず運用していた大日本帝国陸軍と違い、故障や不具合が出たらモジュールごと交換するなどという考え方をする正統ロシア帝国陸軍においては互換性の無さは致命的であった。整備をする度に使える銃が減っていく有様だった。
この状況を当初大日本帝国陸軍は全く理解出来なかった。
「しまった……そうか、連中の場合、エンジンの部品を交換するとかじゃなく丸ごとエンジンを変えるという考え方だった……」
八七式自動小銃の製造元である有坂重工業の総元締である有坂総一郎は陸軍省の東條英機経由で事態を把握した後に頭を抱えながらそう言うとすぐにライセンス生産による供給体制確立を陸軍省に提案しに行った。
事態を把握した陸軍省は即日認可し、三八式歩兵銃の生産ラインをウラジオストク近郊に開設することで後期モデルのライセンス生産を始めることで対応を開始した。
この後期モデルは正統ロシア側ではAAR38と呼称され制式採用されることになる。ちなみに意味はArisaka-Arisaka-Rifle-Type38である。原型の三十年式歩兵銃の開発者である有坂成章中将と三八式歩兵銃後期モデルの量産化をした有坂重工業の両方を示したものである。
AR38やArisaka-M1905とかで良いじゃないかという意見もあったが正統ロシア側はそれを一蹴しこう告げたという。
「同じアリサカでも別のアリサカなのだから双方に敬意をはらわにゃならん、ほれ、モシン・ナガンM1891があるじゃろう? あれはモシン氏とナガン氏という開発者の名を取っている。それと同じじゃ」
そう言われてしまうと反論の余地はない。そもそも、どう名付けようが正統ロシア側の都合なので日本側が何か言うことでもない。自然と前期モデルはANR38となった。Nは三十年式歩兵銃の欠点を改修した南部麒次郎中将のNambuである。
また、合わせて十一年式軽機関銃後期モデルの製造ラインも同様に隣接させる形で移設が決定され、これは日本側にある製造ラインそのままを移設することとなった。これによって製造の自由度が上がり、正統ロシア陸軍の軽機関銃装備率は列強でも随一のレベルとなった。
シベリア出兵後半に軽機関銃の集中配備による火力支援の充実で赤軍やパルチザンなどを撃退したことを高く評価していた正統ロシア陸軍は供与に当たって優先して供給を望んだが、そもそもの数が少ない状態であり満足に供給が出来なかったこともあり軽機関銃の自給体制は念願であったともいえる。
十一年式軽機には安全装置の欠陥があったが、後期モデルはそれを解消し、量産に向いた改良が施されていることもあり、供与されているものも後期モデルであったため三十八式歩兵銃前期モデルの様な問題は起きていなかった。ちなみにこちらはNMG11と称されている。Nambu-Machine-Gun-Type11である。
比較的旧式であるとは言えども、正統ロシア陸軍が基礎的な装備を自給出来るようになったことのメリットは大きく、タイ王国や南米向けの小銃の輸出も正統ロシアが担うことになり、輸出産業として成長することになるのであった。




