正統ロシア帝国海軍
皇紀2592年 4月30日 正統ロシア帝国
正統ロシア帝国はその成立の経緯から大日本帝国におんぶにだっこという状態であった。
軍部の主力を担う陸軍は大日本帝国の三八式歩兵銃を輸入し配備することで体面を保ち、他の装備も大日本帝国陸軍と共通化されたものであり、実質的には大日本帝国の外人部隊という状況だった。
それは海軍も同様であり、八八艦隊計画で建造された若竹型二等駆逐艦8隻、樅型二等駆逐艦21隻が譲渡編入されて太平洋艦隊の再建が成ったのであるが、実質的には沿岸哨戒艦隊であった。これにチリやペルーに譲渡されなかった伊吹型巡洋戦艦(伊吹・鞍馬)が転籍している。また、大日本帝国海軍において練習艦代用となっている出雲型装甲巡洋艦(出雲・磐手)、浅間型装甲巡洋艦(浅間・常磐)の4隻が貸し出され、実質的な戦力としては旧式とは言え巡洋戦艦2隻、装甲巡洋艦4隻、駆逐艦29隻というそれなりの規模を誇り、極東においては大日本帝国海軍に次ぐ規模と言える。
国土の割に海軍力がそれなりに重視されているのは経済が大日本帝国に依存しているという実態を反映しており、日本海航路の安全、オホーツク海の制海権は正統ロシア帝国の生存と直結するだけに必要不可欠だった。
ロシア太平洋艦隊は3隻1単位の小隊による日本海航路のパトロールを常時行い、海上警察としての役割も担っていた。ナホトカ-新潟の約800kmをはじめとする概ね1000km弱の主要航路を常時4個小隊で哨戒していることで不審船などへの対策という面だけでなく気象通報による海洋気象の共有が可能となり航海の安全度は格段に向上していたのだ。だが、やはり二等駆逐艦では哨戒能力に限界があることから早々に大型艦の配備が要望されたのだ。
そこで25~26年に高まって来た欧米列強からの軍縮遵守圧力に合わせて旧式戦艦4隻(敷島・朝日・薩摩・安芸)が解体もしくは標的艦として処分されることとなった際に、装甲巡洋艦と防護巡洋艦の売却譲渡が行われたが、その際に正統ロシア帝国は伊吹型巡洋戦艦の購入を打診し2隻の取得に成功したのだ。
同じく巡洋戦艦であった筑波型(筑波・生駒)の2隻も同時購入を望んだが列強の反対と筑波が爆沈事故を起こした復旧艦であることもあり耐用年数が長くないと大日本帝国側から説得され取得を断念していた。筑波型はその後解体され主砲・副砲は要塞砲へ転用されている。
伊吹型2隻が転籍し、ウラジオストクの金角湾にその雄姿を浮かべたことは白系ロシア人にとって祖国復興の象徴となった。だが、浮かべる城は手に入ったが、元々望んでいた手頃なサイズの大型艦は手に入らず、かと言って自前での建造能力があるわけでもなく、過大な力である伊吹型は運用に困り持て余し気味となった。
しかし、28年の満州事変に際して太平洋艦隊は遠征艦隊を組織することとなり、その旗艦として、主戦力として伊吹型2隻を動員したのだ。日本海航路の哨戒用の駆逐艦は動員出来ないことから海軍本部常駐とされていた若竹型2隻、樅型2隻を使い、伊吹型2隻と合わせて6隻の艦隊を組織したのである。
元々太平洋艦隊という一つの編制であったが、伊吹型などの遠征艦隊を太平洋艦隊、航路哨戒部隊を海上警備艦隊とすることで再編したのであった。この時を外洋海軍への脱皮の瞬間と彼らは認識するようになるのであるが、それは別の話……。
新編成された太平洋艦隊は渤海まで進出し、関東軍の侵攻を海上から援護し進撃を助けたのであった。重砲を遥かに凌ぐ12インチ砲弾の威力は大きく、艦隊の姿を見ただけで白旗を上げる都市や港湾があったほどである。その後、かつての旅順艦隊の母港、関東州旅順港に立ち寄ると在住ロシア人によって歓迎されたのであった。
その日以来、旅順港に太平洋艦隊の6隻は常駐するようになり、蒋介石の北伐再開などにおいても山東半島や上海沖へ出撃し国府軍への圧力をかけ、列強と足並みを揃えていたことで極東に配備されている列強海軍からは高く評価されているのであった。




