重要産業統制法
皇紀2592年 3月18日 帝都東京
「遂に成立したか……」
有坂総一郎は新橋の有坂コンツェルン本社の執務室で難しい顔で報告を受けていた。ここのところ彼は真面目に業務に取り組み、本社業務が近年稀にみるスムーズな決済で大いに捗っていた。
だが、この日の報告は彼にとって非常に悩ましいものであった。
「随分抵抗していらしたけれど、収まるべきところへ収まった感じね」
一緒に報告を受けていた妻にして執行役員である結奈も報告の内容に落胆しつつも仕方ないという表情であった。彼女にとっても予想通りではあっても嬉しくない内容であったのだ。
「ですが、我が社にとって直ちに不利益というわけではありません……今後は推移を注視しないといけませんが」
議会工作を担当している役員はそう言ってフォローをするが、彼にとってもあまり良いニュースではないらしく歯切れが良いとは言えない返答をする。
彼らが揃って渋い表情であるのには理由がある。重要産業統制法が約1年遅れで議会を通過、施行されることとなったからだ。この法案は建前の上では帝国における重要な産業の公正な利益を保護し国民経済の健全な発達を図る目的で制定されているのだが、その実態をよく考えると国家(官僚)による経済の統制管理という側面が大きい。
史実において、国家総動員法や所謂業法などの前身にあたるもので、やがて統制会社による物資の需給調整や製造・配給・集荷の独占的取り扱いなど経済統制を推し進める根拠となったものである。
無論、これが悪法であると断じるのは早計である。
これによって自動車産業の保護育成が推し進められた側面は否定出来ないし、戦争における採算計画に寄与したのもまた事実である。だが、これに従わない場合、物資や生産資源の分配で不利益を享受することもあった。
「それで、自動車関係が真っ先に統制の対象になったんだね?」
「はい。自動車各社は昨今の米国製自動車の過当廉売に不満を抱いておりましたから、商工省に同調し、業界を挙げて統制法の議会通過するように工作を行っていました。また、石油元売り各社はガソリンの買い付けの都合で当初は反対をしていたのですが、どうやら抱き込まれて寝返ったようです」
「大方は外油の締め出しを狙ったのだろうね」
「有坂コンツェルンと出光商会、そして英資本のライジングサン石油が満州を牛耳っていることがどうやら内地の石油元売り各社にとっては面白くないようです」
「だったら自前で販路を拡大すればよいでしょうに……実際出光さんはそうしていたのでしょう?」
「あの方は海賊と異名がありますから、並大抵の企業では太刀打ち出来ないのでは?」
満州事変後の満州利権分配で英仏にも門戸が開かれ石油利権も少なからずフランスに譲渡されていたが、その後の世界恐慌で手を付ける前に手を引いてしまった。その結果、出光商会がフランス利権を購入したことで有坂・出光・満鉄・ライジングサン(ロイヤルダッチシェル)の4社による開発となったのだ。
これが内地の元売り各社にとっては面白くないばかりか、商工省にとっても有坂系の企業が外地で力を持つのは望ましいことではなかった。結果、自動車・石油・商工省の思惑と利害が一致したことで重要産業統制法は衆議院を通過、施行されることとなったのである。