杭州停戦協定
皇紀2592年 3月10日 支那情勢
史実よりも3倍も多い10万の国民党軍による攻撃は列強の共同防衛軍にとって抗し難い状況であった。
無敵要塞と謳われた上海要塞であっても数に勝る敵軍の攻勢を耐え抜くには十分な準備や想定される敵兵力に対抗出来る兵力の配備などが必要だ。
しかし、中原大戦や膠州殲滅戦以来、列強の駐留軍は北支で得られた権益保護などに分散されることとなり上海駐留の部隊は縮小傾向にあった。
上海にある租界において全体の4割程度を占めるフランス租界も例外ではなく、フランス軍の北支転進によってその戦力は半減していた。実際、フランス本国の判断は上海そのものよりも北支の権益保全が優先となっていたのだ。だが、列強の義務的な理由で上海に駐留しているという状態であり、重火器はその殆どが北支に移転して歩兵部隊しか存在していない状態だったのだ。
だが、大英帝国は上海包囲という経験から地上戦力の強化を進めており、インド兵・グルカ兵を中心として比較的火力優勢な部隊の展開をしていた。これは上海だけでなく、香港や天津、秦皇島、威海衛なども同様であった。
アメリカは共同租界に参画していながらもそれほど積極的に租界維持に熱心ではなかった。建前上、支那の機会均等・門戸開放を要求していることもあり最低限度しか関与しない方針を採っていたのである。
しかし、退役陸軍飛行兵が国民党軍のスカウトでパイロットとなっており、共同租界の日本地区に機銃掃射を仕掛けて来たのである。
加賀型航空母艦に代わって支那方面艦隊に配備されていた天城型航空母艦の艦載機が出動し、上海上空から国民党軍の航空機を駆逐、数機を撃墜し捕虜にしたことでアメリカ退役軍人が列強の共同防衛軍に攻撃を加えていたことが判明したのである。
上海派遣軍から参謀本部を経由して情報が帝国政府に伝わったが、その頃には列強各国はアメリカに対して不信感を表明、駐留アメリカ軍の指揮権を取り上げ、駐留フランス軍が代行指揮することになっていた。
こういった列強同士の不信不和に付け込んだ形で要塞の一角が崩されてしまったのである。
だが、内地から緊急出動した帝国陸軍の増援部隊が2月7日に上海へ上陸したことで情勢が変化、再び国民党軍は要塞外に押し出され、増強された上海派遣軍による掃討戦が開始されたこと、インド方面から到着した英印軍の増援もあり、2月20日から蘇州及び南京方面への反攻が開始された。
この際に、量産化が進んでいた機動九〇式野砲と機動九一式野砲は優先的に支那派遣軍に送られ、トラック牽引によって高速移動することで拡大する戦線のあらゆる場所でその秘められた性能をいかんなく発揮したのであった。
「流石、ワシじゃ! ワシの目に狂いはなかった!」
内地参謀本部で作戦部長として作戦指導を行っていた荒木貞夫中将は報告される毎日の戦況と機動砲の活躍に満足感に浸っていた。
上海派遣軍はより多くの兵力が上陸しているかのように見せかけるために、一度上陸した兵の一部を輸送船に戻らせ、再び白昼堂々と上陸させるということを繰り返し、上海市内の目立つ場所にいくつもの「日軍百万上陸」「呉江陥落」などとアドバルーンを上げ、国府軍に視覚的効果で背後が危うくなっていると錯覚させる様に仕向け、これによって退路が断たれることを恐れた国府軍は雪崩を打って退却するようになったのであった。
3月に入ると日英軍だけでなく仏印軍が到着、これによって戦力が充実した列強は本格的な反攻を開始し、一路南京を目指したのである。
自壊した国府軍は各地で追いついて来た列強軍によって粉砕され、3月6日には南京前面の都市である常州と丹陽が相次いで陥落、7日には南京郊外に上海派遣軍の主力が展開、搔き集めた新旧の重砲による砲撃が開始されるのであった。
砲撃に先立って無差別攻撃を行うこと、避難するための時間を設けることをラジオ放送で宣言し、また、航空機によるビラ散布を行い、不当な無差別攻撃ではないことを示した。
この際に無差別砲撃は如何なものかと疑義を呈する列強の共同防衛軍の高級将校がいたが、上海派遣軍参謀副長である岡村寧次少将はそれに断固とした態度でそれを否定した。
「これは明らかな戦争行為であり、我々は一致して支那の挑戦を挫く必要があります。何より、支那という地域において、重要なのは舐められてはならないということ、誰が上位に存在しているかそれを明確に示し、抵抗することを諦めさせる必要があるのです。そのためには再び南京を灰燼とする必要があるのです……お忘れか? 先の支那動乱で我々は膠州殲滅戦で優勢な敵を文字通り殲滅したことを。再び同じ様に格の違いを教えてやらねばならんのです」
この言葉に抗するものはその場にいなかった。何より、アジアでアフリカでインドで岡村の言うようなことをしてきたのは自分たち欧州列強であるからだ。
「では、列強の意思統一が出来たと判断し、実行致します」
上海派遣軍は数ケ月前にベオグラードが消滅した様に南京を消滅させた。容赦などという言葉すら生ぬるいと言わんばかりの鉄の暴風であった。
蒋介石は事前に南京から脱出し合肥に逃げ込んでいたが、流石にこの戦況を不味いと感じ、軍閥の暴走であるということにして処罰することを条件に停戦、兵を退かせることを求めたのである。
共同防衛軍は杭州-湖州-蘇州-南通を結んだ線から内側を非武装の緩衝地帯とすること、上海租界の拡大と列強駐留軍の経費負担を条件に撤兵することで一致、杭州において停戦協定を結ぶこととなった。
10日に杭州において日英仏の上海総領事と蒋が停戦協定に調印、即時発効とし、共同防衛軍は上海市内へ帰還、一部の部隊はそのまま復員することとなった。