上海事変
皇紀2592年 1月28日 帝都東京
京城事件(斎藤総督襲撃事件)、李公事件、桜田門事件と立て続けに起こった朝鮮人による反帝国抗日テロに大日本帝国政府は全世界に対し反帝国、抗日組織の国際指名手配を要請した。1月10日のことである。
大韓民国臨時政府が置かれており活動拠点である上海においては11日から共同租界内の捜査が行われ、今までは現地の憲兵隊が中心であった捜査に列強の警察組織や憲兵も協力することで捜査能力が格段に向上したことによる効果が大きく、13日にはメンバーの数人を確保し、また追い詰めた上で自決したものも数名出てくる快挙を上げた。
だが、桜田門事件を主導した韓人愛国団を主宰していた金九など指導者層を捕らえることが出来ず、現地憲兵隊はピリピリとした空気の中で捜査を継続し、列強の警察組織とも連絡を取り合っていたが、彼らもまた成果を上げるには至っていなかった。
しかし、事態は風雲急を告げる。4月29日に予定されている天長節祝賀行事に爆弾テロを行う計画が露見したのである。
逮捕したメンバーを拷問の上で自白させ、その恐るべき計画を知り得た憲兵隊と領事館警察、フランス租界警察は自白によって判明したアジトへ踏み込み数名のメンバーを確保することに成功したが、そこにはやはり首謀者恪のメンバーは存在せず断片情報を自白によって得ることが出来たのみであったが、有力な情報もまた中には存在していた。
憲兵隊から調書が提出された上海派遣軍司令部は天長節爆弾テロ計画の全貌を知ることになるのである。
大韓民国臨時政府と韓人愛国団の陰には蒋介石率いる国民党政権が存在し、南京においてテロ用の爆弾が製造されていること、繰り返しの実験で広範囲を殺傷出来る爆弾がすでに用意されていること、その予行演習として上海総領事館への襲撃が予定されていること、上海総領事館への襲撃の直後に国府軍が上海に侵攻する予定であること……これらが断片情報から判明したのである。
この事態に上海派遣軍司令部は衝撃を受けると同時に帝都の参謀本部へ増派を要請するとともに列強の共同防衛軍司令部に同様の情報を提供したのである。
無論、この事態に衝撃を受けたのは列強も同様であった。特に英仏は先年の支那動乱以後、比較的平穏であった支那情勢が再度悪化しかねないこと、そして侵攻規模が掴めないこともあって動揺していたのである。
だが、この事態に比較的冷静に対応していたのは大英帝国東洋艦隊であった。指揮下のグルカ兵を港湾に集中配備させるとともにインド兵をイギリス租界に展開させ、憲兵とともに治安の維持を命じていた。また、列強の共同防衛軍は上海要塞の各監視哨に24時間体制の警戒配備を命じ、機関銃部隊を要衝に配置、不意打ちにならないように体制を整えていた。
そして、25日、上海郊外に10個師団相当の国府軍が出現、郊外の村落の住民が恐慌状態で上海市内へなだれ込んできた。難民の処理に工部局(上海市庁舎・市議会)は苦労することになるが、フランス租界に収容することとしたが、これには相当数の便衣兵が紛れ込んでいたことでフランス租界において治安が悪化することになった。
26日、工部局は市当局、列強の窓口として国府軍に退去を要請したが黙殺された。28日、上海要塞北面において戦闘が開始された。