桜田門事件
皇紀2592年 1月8日 帝都東京
史実においてこの日、陸軍始観兵式のため行幸が行われ、偶然が重なったことで大逆事件を決行した李奉昌による桜田門事件があった。
上海に巣食う大韓民国臨時政府の抗日武装組織「韓人愛国団」に所属していた李は12月28日の新聞報道で観兵式が行われることを知り、1月6日にバス運転手から入手した憲兵の名刺を使い観兵式の警戒網を突破したが、間抜けなことに酒を飲んでいた間に通過されてしまい、円タクで追いつき桜田門付近で群衆に紛れ爆弾投擲の機を窺っていた。
李はこの時、御料車がどれであるか把握しておらず、1台目の馬車への投擲の機会を失い、2台目の馬車に投擲したが、爆弾の威力が弱かったこともあり襲撃は失敗したのである。
この時、犬養毅内閣は辞表を提出し責任を取ろうとしたが、元老西園寺公望の慰留や元首相山本権兵衛が責任を取るまでもないとし、同様に天皇もまたそれを追認したことで内閣は続投することとなった。
だが、問題は国内だけにとどまらなかった。
上海では中国国民党機関紙である民國日報が事件について「不幸にして僅かに副車を炸く」などと犯人に好意的な報道をしたのである。これには現地の日本人社会による糾弾運動に発展して日支関係が緊迫化し、これが1月28日に発生した第1次上海事変の原因となったのである。
この世界でも陸軍始観兵式のための行幸が行われたが、この年からは量産体制が整った九一式側車付自動二輪車が警備車両として投入され、同時に馬車を廃止し防弾仕様で各国元首専用車として採用が進んでいたメルセデスベンツ770が導入されて投入されていたのだ。
史実同様に李が襲撃を決行しようとしたが、警戒していた憲兵と奉拝者が酒に酔い視線も定まらず不審な動きを見せる李を取り押さえたことで未然に襲撃は阻止され、被害者ゼロという歴史上不思議な大逆事件となった。
しかし、いくら被害者が存在しないとは言えど、大逆事件は大逆事件であり、先年から摘発を強化している上海を根城にする大韓民国臨時政府とその下部組織の殲滅を決意、帝国政府は各国の大使館に上海における捜査に協力することを即日依頼したのである。
無論、参謀本部から上海派遣軍に同様の指示が下り、傘下の憲兵もまた今まで以上の摘発強化が命じられたのであった。