1932年時点での世界情勢<2>
皇紀2592年 1月1日 世界情勢
ポーランドはチェコスロヴァキアとの戦争で結局は分割されたテッシェンを全域確保したに過ぎなかった。騎兵部隊の喪失という多大な損害対して得たモノは余りにも小さなものであり、政権基盤にダメージを与えることとなり、年末には政権が崩壊し、新政権が誕生したが暫くは失った兵力の回復に注力せざるを得ない状況であった。
また、ダンツィヒ湾が海上封鎖されてしまったことによって経済状態は恐慌以来の低迷に加えさらに打撃を受けることとなったのである。内需拡大を図ろうとするが輸入が出来ないことで製品を生み出すことが出来ない。元々農業国家であるがゆえに産業の基盤も弱く、資源と言えば石炭くらいなものである。それが故に深刻な不況にあえぐことになったのだ。
チェコスロヴァキアも同様に深刻な孤立を深めていた。ポーランドが兵を退いたとは言ってもハンガリーは列強と結んで巨大化しつつあり、オーストリアも王党派勢力が日増しに優勢になりつつあること、ドイツはズデーテンラントのドイツ系住民迫害というそれで圧力をかけ続けていること、それらすべてがチェコスロヴァキアを追い詰めていたのである。
昨日の敵は今日の友。
12月25日、ポーランド・チェコスロヴァキア友好条約がポーランド南部レンベルク結ばれた。いわゆるクリスマス友好条約と言われるものだ。お互いに足りないモノを補い合うことで孤立した現状を打開しようというもので工業製品をチェコスロヴァキアがポーランドに供給し、農産物を逆に供給するというものであった。
だが、不足するものは燃料である石油も同様であった。東欧で流通する石油の殆どはルーマニアとハンガリーで産するものだった。ポーランド・チェコスロヴァキアの両国はソ連との接近を画策し、不足する石油をソ連から手に入れようと考えたのである。
クリスマス友好条約が結ばれた同じ日、ポーランド・チェコスロヴァキア・ソ連の三ヶ国が秘密裏に集まり、経済相互援助会議が同じレンベルクで開催される。これは後にコメコンと称され、所謂東側陣営の経済的結びつきを象徴する組織だった。
国際的に孤立している国家が結びつきを強めていくことは後の世界に大きく影響を与えていくことになるが、現時点では列強諸国も想定は出来ていなかった。いや、そもそもがコメコンの存在に気付くことはなかった。ゆえに事実上の経済制裁を受けているにもかかわらずポーランド・チェコスロヴァキア両国が経済破綻を起こさない理由が数年の間わからなかったのであった。
一方、ソ連の指導者であるヨシフ・スターリンはクレムリンの執務室で笑みを浮かべていたのである。労せずに東欧を勢力圏に組み込むことが出来たからであるが、彼にとってもコメコンが後に役立つことになるとはそれほど思ってはいなかったからだ。恩を売っておく程度のものであった。
32年1月から不足する石油が順次供給されることとなり、また、鉄鉱石など不足する資源の供給も始まる予定となっており、チェコ製の工業製品もまた同様にソ連領内に流通し始めるのであった。




