1932年時点での世界情勢<1>
皇紀2592年 1月1日 世界情勢
31年12月は世界全体で見た場合においては平穏な部類に入るだろう。半年にも及ぶユーゴ動乱の結果、講和条約などは結ばれていないが、列強間においてはクリスマスの時点で実質的なユーゴスラヴィア解体と再分割に関しては決定事項となっていた。
ユーゴスラヴィア王国は事実上消滅し、セルビア及びコソボ、北マケドニアは暫定的に南バルカン無政府地帯と一括りで扱うこととし、中央政府が存在しない地域とすることで方針が確定した。
王国政府は軍閥化した王国軍と妥結したことで人民解放戦線と戦うことに専念しているが、その支配地域は全土に及ばず、同様に人民解放戦線も兵力はあっても装備に事欠くことで北マケドニアの一部を支配するのが限界であった。結果、至る所で空白地帯が発生し、その空白地帯を巡っての争いが続いていた。
日伊洪三ヶ国とユーゴ王国政府は公式非公式問わず休戦・停戦の類の協定を結んでいたわけではないが、ドナウ川及びサヴァ川以南、ドリナ川以東、旧モンテネグロ領域以外のセルビア地域には兵を出さず、概ね旧帝国の国境線を境に鉄条網と監視哨を築きそれより先への侵攻は控えていた。だが、パルチザンやゲリラの類が旧帝国国境を越境しようとする場合に限って戦闘が発生していた。
これによって奇妙な停戦状態が構築され王国政府及び王国軍はヨシップ・ブロズ・ティトー率いる人民解放戦線との戦闘に専念していたのであるが、動員によって生産基盤が崩壊し、また動員した兵が離反し人民解放戦線に寝返るなどした経緯もあってただでさえ工業化が立ち遅れていたセルビア地域における兵器生産は追いつくことはなかった。また、同様に兵器生産基盤を持たない人民解放戦線も戦闘を行う程の余力はなかった。
こうして小競り合いこそあるが、南バルカンの情勢は小康状態に落ち着いたのである。ただ、武器はなくとも農具を手に蜂起する民衆への手当てに日伊洪三ヶ国は苦労を続けていた。
また、スペインにおける選挙の結果31年4月に誕生した第二共和政は史実通りに左翼的な政策を次々と打ち出し、軍部及び保守派、教会勢力との軋轢が拡大していた。新政府による政策は国内の各政治勢力にとって受け入れ難いものであったこともあり、当初選挙で支持した民衆にすら支持を失うという情勢だった。
急進的な政策を求める勢力はデモや政治的テロを繰り返したことで治安が悪化し、民衆はこれに失望を隠さなかった。政教分離を訴え、それを強引に推し進めたことは敬虔なカトリック信者が多いスペインにおいてある意味最大の禁忌であっただろう。これに手を付けたことで治安悪化で不満を抱いていた民衆の反感を更に買い、保守派はそれを好機と扇動し民衆はそれを支持したことで新政府は窮地に立たされていた。
一度迷走を始めた新政府の政策は各政治勢力から袋叩きに合い一貫性のないものとなったのである。当然のように議会民主制というそれに失望感が広がっていった。
前国王アルフォンソ13世によって不人気と責任を理由に更迭されたミゲル・プリモ・デ・リベーラの時代を懐かしむ声が聞かれるようになると息子のホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラを擁立しようとする声が上がり始め、ホセ・アントニオは民衆の声に応えるかのように31年10月にファランヘ党の結成を宣言したのである。
史実においてファランヘ党は33年に設立されているが、ホセ・アントニオの立ち回りが絶妙なタイミングであったことも功を奏した形となり2年早く設立されたのである。
スペインにおける重要人物であるフランシスコ・フランコ・バアモンデは未だ少将の地位で地方の軍政官に過ぎなかったが、史実と違い、ファランヘ党が早期誕生したことがフランコにどう影響を与えるかは現時点ではわからない。




