大ローマの夢
皇紀2591年 11月20日 欧州情勢
ベオグラードが事実上消滅して5日。
ハンガリー軍が瓦礫と化したベオグラードを占領するとブダペスト駐在の各国武官たちはベオグラードへ向かい廃墟と化した市街地の調査に勤しんでいた。
列強の興味は戦略兵器として機能した列車砲に集まっており、実質的に指揮を執っていた富永恭次少佐ら日本軍事顧問団へ連日の様に情報を得ようと押し寄せていた。
彼ら武官たちが得た情報は大きいものであった。
欧州大戦時にパリ砲による遠距離射撃を受けていた当事者であるフランスの武官は特に衝撃を受け、海軍予算の縮小と列車砲の増強を行う様に本国へ打電し、同様にドイツの武官もドーバー越え、パリ直接攻撃が出来る列車砲の開発を提言する内容を本国へ打電していた。
大英帝国は満州事変と支那動乱による大日本帝国の行動を予め分析していたこともあり、今回もこの延長線であり、特にみるべきものはないと判断していたが、列車砲を従来の攻城兵器から戦略兵器へ脱皮させたそれは研究するに値すると報告を出すと同時にドーバー海峡における予想射程範囲からの産業の疎開を提言していた。
与えた影響は国によってさまざまであるが、戦略兵器、決戦兵器としての運用ノウハウの確立は陸軍国が多い欧州諸国にとってはパワーバランスを塗り替えかねないものとして認識されたのは間違いなかった。
列車砲の最大の欠点である機動力の無さと射撃速度の遅さという問題を解決さえ出来れば航空機が展開出来ない地域において安全圏から絶対的な投射力ともいえる鉄の暴風で敵勢力を圧倒出来ることを意味していたからだ。
従来の要塞攻略、拠点制圧という運用に限らない運用を行うには少なくともダース単位でのそれが適切であると各国武官たちは一致した見解であり、それは4編成しか用意出来ず発射間隔が大きく連続射撃を続けることが大きな課題であると調査結果から裏付けられていた。
だが、関東軍配備の列車砲のそれは明らかに連続射撃と迅速な展開が行われていたことが断片情報で推測されていたこともあり、各国陸軍当局は武官からの報告の相違で混乱に拍車をかけることになるがそれはまた別の話。いずれにせよ、欧州各国は列車砲の研究に注力する姿勢を鮮明にする大事件となったのであった。
その時、どの国も王国政府、人民解放戦線、無政府状態に分裂したユーゴスラヴィアを無視していた。最早欧州諸国の関心事はポツダム宣言による旧来秩序への復帰と新たな国境線の引き直しに映っていたのだ。そこには民族自決の原則など微塵も考慮などされていなかったのである。
モンテネグロへの復帰を訴えモンテネグロ王位を主張し続けていたミハイロ1世のそれは今までは無視されていたが、イタリア王家と縁戚にあるミハイロ1世を担ぎイタリア影響下の地域拡大をイタリア政府は狙い始めた。
この時、イタリア首相ベニト・ムッソリーニの脳裏にはダルマティア、モンテネグロ、アルバニアを併合もしくは影響下に置くことで大ローマの夢が描かれていた。いや、ムッソリーニよりもイタリア国民こそがローマの夢に酔っていたかもしれない。
「次はアルバニア……ギリシア……エジプト」
地中海世界の再統合……大ローマの夢は余りにも甘美で強力な指導者の指し示す未来像はイタリア国民を酔わせるに十分であった。




