全弾着弾す
皇紀2591年 11月15日 ハンガリー ノイシャッツ
ユーゴスラヴィア戦役も大詰めを迎えて来た頃、富永恭次少佐率いる軍事顧問団は機動師団を離れ、今はノイシャッツ・ペーターヴァルダイン要塞に司令部を置く列車砲集団の臨時司令官及び臨時司令部として職務に専念していた。
本来、東條英機少将からの命で派遣された彼らは列車砲の運用など予定外のものであったが、彼らは満州において関東軍が集中運用し奉天を灰燼に帰した事例を再度研究し、それに基づいて作戦行動に出たのである。
その際に用意したのは通常の榴弾だけではなく、焼夷弾子を内包した新型砲弾をイタリアに試作発注させたのである。元々の砲弾のそれを流用改造することにし1ケ月ほどで新型弾を用意させたことには相当な無理があったのであるが、富永がブダペストの王宮でミクローシュ・ホルティ王国摂政に掛け合ったことで現実化する運びとなった。
「それは面白い。大いにやるが良い。だが、我が王国の名誉にかけて事前周知だけは忘れずに頼むぞ」
ホルティの許可も得たことで砲の開発元であるイタリアに富永はそのまま旅立つとイタリア陸軍省とアンサルド社に掛け合い、焼夷砲弾の開発と製造を依頼したのである。本格的な製造ではなく、既存砲弾の改造で済む範囲のものを20発程度早急に揃えたいと申し出ると彼らは首を傾げた。
列車砲と言えば一般的には敵陣地を吹き飛ばすことが目的の榴弾や要塞などを粉砕することが目的の徹甲弾が一般的であるが、焼夷弾を使うなど聞いたことがなかったのだ。
「軍機に触れる故申し上げられません。ですが、試作弾25発だけあれば良いのです。ハンガリー政府より代金が支払われますので、2週間で開発をお願いします。試射などは一切なさらずとも構いません。こちらで全て行いますので砲弾25発を製造してくださればそれで構いません」
富永の要望は無茶なことを言っているが、それでもハンガリー政府、それも王国摂政の名において発注がされていることで彼らは即日取り掛かることになった。開発期間が短いこともあり通常の榴弾のそれを流用し、内部に焼夷弾を詰め込んで、時限信管で爆発のタイミングを設定することとした。
簡単な改造のため制式化した砲弾としては問題があるが、試作砲弾という枠で考えれば十分なものであり、富永の要望よりも5発多い30発が引き渡された。イタリア陸軍省曰くオマケであるそうだが、試射などを行わない分を考慮したものであるのは間違いなかった。
富永は短いローマ滞在期間であったが、名残を惜しみつつ砲弾30発とともに列車でブダペストを経由しノイシャッツへ戻った。
完成した試作砲弾は実質的には史実の海軍の三式弾に相当するものになっていた。これは偶然であるとは思うが、突き詰めれば結局はああいう仕様になるのだろう。
富永が戻った11月10日に列車砲の整備が行われたうえで2発の試射が行われた。1発は通常の榴弾、もう1発は試作焼夷弾である。この時の試射は近隣の避難によって無人となった村落を狙って行われた。
1発目の榴弾によって村落の建物は粉砕され、2発目の焼夷弾の着弾で想定通りに火の海となったのである。消火のために消防団や部隊が展開していたが、その時の発生した火災はなかなか鎮火することはなく、一晩中燃え続け、やっと翌日の昼過ぎに鎮火したのであった。
「想定通りだったな」
富永は満足げに頷くとラジオ放送を使いベオグラード近郊に向けて24時間以内の避難勧告を出したのである。また、ラグーサに停泊する遣欧艦隊から艦載機を飛ばさせ、ベオグラード周辺にビラを撒いた。いずれも避難勧告であった。
そして、15日正午。
サイレンが鳴ると同時に列車砲4編成が発射位置につき、第一斉射を行う。続いて5分後に第二斉射が行われる。以後5分間隔で斉射が続き、第五斉射までは榴弾が発射され、第六斉射において焼夷弾が発射された。
「構わん、使いきれ! 焼夷弾は一発も残さず打ち尽くせ!」
富永は冷静に指示を出す。
――試作弾なんて危なっかしいものはさっさと撃ち尽くしてしまうに限る。
保有していた29発全てを撃ち尽くした後、空母加賀からの観測機によって戦果報告が入って来た。
「発、加賀観測機、全弾着弾す。ベオグラードは焦土と化したり」




