バニャルカの出会いとティトーの決起
皇紀2591年 11月10日 バルカン半島
日伊両国のダルマティア侵攻、ハンガリー参戦から約5ヶ月。
ユーゴスラヴィアは南北から圧迫され続けていた。クロアチアはアグラム(ザグレブ)を中心にクロアチア独立勢力が陣取り、スロベニアはインスブルック正統政府を率いるオーストリア王党派によって占領されていた。スラヴォニア・ヴォイヴォディナはハンガリーが解放し自国領土へ編入していた。
日伊両国はダルマティア全域を攻略、ディナルアルプス山脈に阻まれつつも中欧派遣軍を中心にサラエボへと進軍を続けていたが、ボスニア・ヘルツェゴビナに残留するセルビア人たちはパルチザンとして日伊両国軍に抵抗を継続、各地でゲリラ活動を行い進軍を妨げていた。
各地に潜伏するパルチザンを指揮するのはソ連の特殊部隊によって解放されたヨシップ・ブロズ・ティトーであり、コミンテルンの指導の下でゲリラ抵抗を続けていたのである。
ティトーらパルチザンは都市や村落、峠や渓谷問わず神出鬼没に現れ、日伊両軍に損害を与え続けていた。だが、彼らが手にしていた武器弾薬はあまりに少なく、徐々に追い詰められていく。しかし、ティトーは元軍人でもあり、ユーゴスラヴィア軍の兵営を襲撃し、そこから武器を持ち出すとユーゴスラヴィア軍相手にも抵抗を始め、ユーゴスラヴィア王国政府の圧政に苦しむ国民の解放者としても各地を転戦するのであった。
ティトーらの行動に賛同したセルビア人たちもまた王国政府に反抗的となり、不穏な動きを鎮圧するために出動したユーゴスラヴィア軍を逆に袋叩きにし蜂起するという事例がセルビア及びモンテネグロ地域でも頻発したのである。
この事態に一番困惑したのは他の誰でもなく日伊両軍であった。
「そこにいる村人がパルチザンなのか善良な一般人なのか、それすらわからない。昼はニコニコと笑って食事をしたのに夜になると鎌で襲ってくるなんてのは日常茶飯事……パルチザンや民衆に襲われているユーゴ兵を救護するなどということも数日に一度はあった」
中欧派遣軍の戦闘詳報や報告の類には決まってそう書かれており、それとともに付け加えの文も毎回書かれている。
「機関短銃は市街地における遭遇戦では役に立つが、如何せん威力が不足し、かと言って小銃では連射性に難があり、同様に軽機関銃では連射性と足止めに効果的だが即応性に難がある。斯様な戦場では我が装備に適切なものなし、願わくばフェドロフ小銃が如き反動が少なく撃ちっぱなしが出来る自動小銃を配備すべきと具申するものである」
そこには不正規戦闘による苦労が見え隠れし、機関短銃の威力不足によるストッピングパワーの不足が顕著であることが示されていた。
「機関短銃の利点は取り回しの良いところであるが、昨今の戦場において拳銃弾の不足も深刻であり、軽機を据え付けた自動貨車による制圧射撃を主とせざるを得ず、補給に支障が出てくることも多い」
報告書には戦場が明らかに異次元のものとなりつつあることを示していたが、彼らのもとに届いたのは有坂重工業から根こそぎ動員した試製機動砲であった。
「支援火力の充実は喜ばしいことで、頼もしいことこの上ないが、現時点で出番なし。出くわす敵は皆、パルチザンやゲリラなり……我が欲するのは斯様な火力に非ず。自動貨車と軽機の充足を願う」
帝都東京の参謀本部が送り込んだにも関わらずその真価を発揮することはなかった。だが、より深刻であったのはイタリア軍の方であった。彼らは中欧派遣軍よりも軽機関銃の装備率が低く、各地で乱戦になっている際に大きな犠牲を出していたのである。
余りの損害の多さに各地でパルチザン狩りを行い、見せしめに一つの村を丸ごと焼き払うなどの行動に出ていたこともあり、イタリア軍に対する反発は大きくなっていたが、だが、徹底したパルチザン狩りの効果は上がっており、検挙したパルチザンを使い、誘き寄せてそれを一網打尽にするという方式でパルチザン勢力を追い込んでいったこともあり、11月3日、日伊両国はダルマチア・ボスニア・ヘルツェゴビナを完全に掌握したのである。
バニャルカの出会いと後世に称される大日本帝国・イタリア王国・ハンガリー王国三軍の邂逅は北部戦線と南部戦線が合体したことは中欧動乱の一つの転換点となったのであるが、神出鬼没に現れるパルチザンへの対処には日伊洪三ヶ国にとって重くのしかかる問題であった。
一方のユーゴスラヴィア政府は尚も徹底抗戦を宣言し、首都ベオグラードとモンテネグロの死守を叫び足りない兵力を補充するために動員に次ぐ動員をかけていたが、これによってセルビア及びモンテネグロの生産は停止状態に陥ったのである。
そして8日、マケドニアにおいてティトー率いるユーゴスラヴィア人民解放戦線が反旗を翻したのだ。パルチザン勢力が動員によって編制されたマケドニア方面軍をそのまま乗っ取り叛乱を起こしたのである。パルチザン勢力はマケドニアのスコピエに続々と集結し、ここで人民解放戦線を名乗り叛乱軍を吸収し7万の正規兵と民兵を擁する勢力として参戦したのであった。




