ポツダム宣言
皇紀2591年 8月30日 ベルリン郊外ポツダム
月初から継続してポツダムにおける列強会談が行われている。29日に最終的な妥結が出来、英独仏伊の四ヶ国は欧州新秩序と銘打った共同宣言文書に調印した。
欧州新秩序共同宣言、通称ポツダム宣言と後に呼ばれるこの列強による欧州の枠組みの在り方は事実上ヴェルサイユ体制の枠組みを部分否定し、欧州大戦以前の均衡ある欧州社会への回帰を目指したものであった。
なかでも注目されるべき点は昨今の欧州動乱の原因は1918年1月8日にアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが、アメリカ連邦議会での演説のなかで発表した十四ヶ条の平和原則にある民族自決の考え方にあり、それを採用したヴェルサイユ条約にあると明言したことである。
これは戦後体制の否定であり、旧オーストリア=ハンガリー帝国、旧ドイツ帝国、旧ロシア帝国から独立した諸国の根拠を否定するものであった。
イタリア首相ベニト・ムッソリーニはこの共同宣言を発するにあたって冒頭で旧帝国諸国を解体したのは誤りであり、旧帝国諸国が統治し統合していたことで民族紛争や領土紛争は抑え込まれていたが、それを解き放ったことで欧州大戦後に中東欧における戦争の頻発、民族対立の激化が発生したと結論を述べている。
「我々が今ここで抱えている問題はチェコ軍団の救出とそこから発生したチェコの独立支援という本来の戦争の意図とは別のものに踏み込んだことから始まっている。無論、人道的には救う努力を行うべきであるし、彼らの自主独立の思いは踏みにじるべきではなかろうが、よく考えていただきたい。彼らに国家を担う能力があったのかということだ」
事実上、チェコスロヴァキアについて当事者能力なしと言い放った。
「同様にポーランドもまたドイツ帝国とロシア帝国から解き放たれたが、彼らは今や侵略者になり果てておるではないか? ユーゴスラヴィアに至ってはオーストリア=ハンガリー帝国から得たクロアチア・ボスニア・スロベニアにおいて迫害者として振舞って内戦状態である……そして今やハンガリーに押し込まれ兵なし状態ではないか? ゆえに我ら国際社会に責任ある列強は一つの結論に至った」
ドイツ大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクはムッソリーニの弁を引き継ぐ。
「ムッソリーニ氏の指摘した点だけでなく、我々は経済的な問題もまた重要な問題であると考えている。特に旧オーストリア=ハンガリー帝国の領域は工業地域と農村地域が分散している。これはそのまま分断された各地域の経済格差と国民生活に多大な悪影響を及ぼしている。必要な生活必需品は言うに及ばず工業製品すら満足に得ることが出来ない旧帝国の分断された諸地域のそれは民族問題とは別の問題を引き起こす因子であると我々は懸念している」
ヒンデンブルクの発言は集まった記者たちにとっては目新しいものであった。目につくの民族対立と領土紛争であっただけに新しい切り口で問題を示したことで記者たちの質問が相次ぐ。ヒンデンブルクは地図を用意させ記者たちの疑問や質問を澱みなく答えていく。
「記者諸君は一つの疑問に行きつくのではないだろうか? ドイツとオーストリアが合邦することでドイツ民族が一つにまとまるのではないかというものだ」
記者たちはそれに頷く。ヒンデンブルクは英仏の首脳の方に視線を向ける。英仏両首脳はそれに首肯したことでヒンデンブルクは続けて述べる。
「各条約によってドイツとオーストリアの合邦は禁止されている。無論、我々はこれについて協議を行ったが、欧州の旧秩序、現秩序、そして今後の新秩序を考えるとそれは否定された。同じドイツ民族ではあるが、ドイツとオーストリアは乗り越えるべき問題が多くある。それは歴史的なものでもあり、二つの皇帝家、王侯貴族の問題もある。無論、英仏伊の懸念もある。そう、ドイツが強大化することで欧州大戦の雪辱戦を仕掛けるのではないかという疑いだ」
過去何度も浮上しては消えていった独墺合邦は現実的に十分考えられるものであり、欧州諸国が最大の脅威と考える事案であった。だからこそ、列強各国はこの問題を非常にデリケートなものとして扱っていた。
「私はここにドイツ国家を代表して明言する。ドイツとオーストリアは従来通り別個の国家として存続すべきであり、オーストリアには中東欧の象徴的存在、統合の枢軸としてあり続けるべきであると……これには英仏伊の首脳も同意するものであり、また我らと歩調を同じくする大日本帝国もまたそれに賛意を示している……残念ながらアメリカ合衆国はそれに賛意と協力を示すことはなかったが」
ヒンデンブルクはとても残念であるという表情を浮かべつつアメリカが欧州情勢にノータッチであることを強調すると再びムッソリーニに場を譲った。
「我々は幾度も立場や考えの隔たりを乗り越えるべく議論を続けて来たが、この難局を乗り越えるためには統合の象徴が必要であり、それは民族を超越したものでなくてはならないと結論に至った。そう、君主制という伝統であり国家と国民を結びつける権威である……ドイツにはホーエンツォレルン家、オーストリア及びハンガリーにハプスブルク家の君主を再び戴くことが適切であるという結論である……ドイツおよびオーストリアにおける帝政復古の機運は高まりつつある状況であることも考慮しての結論であると我々は明言したい。今すぐに出来るものではないが、ドイツおよびオーストリア=ハンガリーには是非にも国論をまとめていただきたいと声明して本日の会見は終わりたい」
ムッソリーニはこの会議で実質的に主導権を握り最期まで英仏の首脳にマイクを明け渡さなかった。英仏ともに国内政治が不安定であったことから一貫した方針を示すことが出来なかったからであるが、それはムッソリーニが大英帝国のウィンストン・チャーチルと図ってマクドナルド労働党政権に揺さぶりをかけていたことが大きい。
フランスもまた大英帝国が一貫した方針を採らないことで強硬な反対も出来ずムッソリーニの指導力に流されてしまったのだ。
だが、これで日伊が主導するハプスブルク家擁立の国際的環境は揃ったと言えるだろう。




