ハンガリー参戦
皇紀2591年 6月17日 ハンガリー・ユーゴスラヴィア国境
ハンガリー王国のミクローシュ・ホルティ王国摂政は15日、ブダペストの宮殿において堂々の宣戦布告を告げた。
「これより我が王国は欧州大戦後のどさくさに盗人どもによって奪われた領土を奪還するための戦争を開始する。これは聖イシュトバーンの王冠の下にあるべき我らの真聖な領土を正しき地位へ戻すための聖戦である」
ホルティの言葉には一切の虚飾はなかった。文字通り、領土奪還のための戦争と定義づけていた。そこには他民族を虐げるセルビアへの懲罰などそういった国際大義などはなく、自国民の尊厳のためだけの国権の発動であった。
「国際大義のために軍事行動を起こしている日伊両国と我らは歩調を同じくするものであるが、我らはこれより小協商の軛を脱し、自存自栄のために戦うのだ。我らが国民よ、この10年にも及ぶ屈辱を晴らすべき時が来たのだ! 私は国民の奮励を期待する」
ホルティの宣戦布告は明確にして簡潔であった。戦争意義と目的、その終幕への明確なヴィジョンが示されていたのだ。彼の力強いメッセージによってハンガリー国民の士気は高まり、当日の夕刊と翌日の朝刊には戦争への協力と政府への支持を訴えるもので一色に染まっていた。
開戦当日に国境線を突破したハンガリー軍は機動師団と名付けられた部隊によってヴォイヴォディナへ侵攻を開始すると各所で包囲殲滅を繰り返し、開戦2日目には国境から30キロまでを尽く占領するに至った。
この機動師団、実は日本から輸入された自転車が配備された快速師団であったのだ。
軍備制限が課されているハンガリー王国陸軍に即効性のある兵器供与は実質不可能であり、周辺国がいずれも敵対国家であることから兵器の輸入も不可能であるが、自転車は兵器ではないため何ら問題なく大量に輸入することが出来たのである。
昭和通商を通じての自転車の大量輸出は有坂総一郎の発案かと思われるが実は違う。真の発案者は東條英機少将その人である。
「なんだ、有坂よ、貴様、我が帝国陸軍がマレーで銀輪部隊による電撃戦を仕掛けたのを知らんのか?」
この一言である。
たまたま、東條と総一郎が陸軍のトラック不足による輜重兵の自動車化が進まないという話題で鳩首会談をしていた時のことである。無論、二人が出会ってすぐの頃の話である。
「トラックがないならないで自転車を活用すればよいだろう。自転車の後ろにリヤカーを引かせれば即席のトラックにはなる。自転車を改造して2台連結すれば2頭立ての馬車代用にはなる。もう少し力が必要ならオートバイで代用も出来るだろう?」
東條の言うことは確かであった。故に当初から安価に納入出来、燃料も必要がないリヤカー付き自転車を大量に陸軍省へ納入していたのである。これによって、トラックや馬匹の需要が減ったわけではないが、陸軍においては自転車の普及率が向上し、平時の行軍においても自転車による長距離移動などが行われるようになったのである。
それから数年経ち、中欧介入の陰謀が真実味を持ち始めた頃に東條は昭和通商を通じて陸軍が保有している自転車の大量輸出を計画し、格安中古品でハンガリーに輸出したのであった。
放出された軍用自転車は変速機能、荷物搭載能力、強度を維持した軽量化が行われていたことで平地であろうが勾配だろうが楽々スイスイと走れるものであった。また、リヤカー付きのそれには原動機が取り付けられており、多少の重量物も運搬出来る様になっていたのである。
この軍用自転車の輸出が本格化したのは30年の3月であり、若槻演説によって日伊関係が急速に緊密になりつつあったタイミングである。3月中旬以後にイタリア・ヴェネツィアに荷揚げされたこれら軍用自転車は鉄道によってオーストリアを経由してハンガリーへと納品された。
ここに東條子飼いの富永恭次が送り込まれたのである。
富永恭次……史実における東條の腹心の一人であり悪評高い人物であるが、その評価には明らかな誤解や偏見が混じっていることがわかる。彼も他の軍人の例にもれず、見識と不見識を兼ね備えた将の一人である。
東條はかつて重用した部下である彼をこの世界でも見捨てることはしなかった。彼にも誤りがあり、自身にも誤りがあったのは確かだが、何が間違っていたか、どう誤解を与えたのか、それさえ理解していれば間違いを犯す可能性は低い。まして、よく知る人物であればなおさらである。癖を理解し用いることが出来れば、知らない誰かを用いるよりも確かであるのは間違いない。
「富永よ、貴様には欧州に行ってもらう。貴様に預けるこの自転車、これを兵器として運用せよ。ハンガリーは軍備制限でまともな近代装備を期待出来ない。であれば、抜け道を用意するのだ。戦車やトラックだけが快進撃を行えるわけではない。敵よりも早く浸透し、後方に回り込むことが出来れば、少ない兵力でも包囲殲滅であろうが後方攪乱であろうが可能である」
東條の意図は正しく富永に理解され、昭和通商によって持ち込まれた自転車をそのまま装備したハンガリー軍の教官として活動を開始し、中欧動乱が始まるまでに機動師団を育て上げたのである。
この富永が育てた機動師団は動乱が起こると直ちに国境へ展開し、チェコスロヴァキア、ルーマニア、ユーゴスラヴィアの各国に突然現れたハンガリー軍という衝撃を与えたのである。
ルーマニアが対ソに方針転換したのもより強大なソ連への備えを優先したこともあるが、ソ連と二正面作戦となり、尚且つ正体が不明な神出鬼没なハンガリー軍を相手するのは不利だと錯覚させたことが大きい。ルーマニアが離脱したことで小協商の関係が悪化した結果、ハンガリー包囲網は自然と瓦解したが、その裏には富永と彼が育てた機動師団が大きな理由でもあったのだ。




