ダルマティア侵攻
皇紀2591年 6月10日 アドリア海
中欧派遣軍と遣欧艦隊(遠洋演習艦隊?改称)はタラントを根城にアドリア海への影響力を発揮していた。
地勢上、アドリア海に面するユーゴスラヴィア領の港湾都市はその殆どが狭い平地とその後背の斜面に建造物が集中している。そのため、艦砲射撃を行うにあたって射的屋台のひな壇上の景品が如く狙い撃ちするのに困ることがないものであった。
5月後半にアドリア海南部に進出した遣欧艦隊は5月25日にカッタロ湾から出撃してきたユーゴ海軍の水雷艇による襲撃を受けたが速力に勝る特型駆逐艦によって逆に追い回される結果となった。
空中哨戒する加賀搭載機によって発見されたユーゴ水雷艇は特型駆逐艦4隻による魚雷攻撃を受けるやたちまち2隻が撃沈され、怯んだ僚艦が逃走の構えを見せる中で1隻の水雷艇は果敢にも再度魚雷の射線に捉えんと果敢に行動していたが夕張の14cm砲弾を艦体中央に被弾、その結果、魚雷発射管に装填されていた魚雷が誘爆、艦体が真っ二つに裂け轟沈した。
ここからは一方的な狩りでしかなく、逃走していた3隻の水雷艇も特型駆逐艦に捕捉され12.7cm砲弾の滅多打ちに遭い何れも撃沈されアドリア海の藻屑と消えたのであった。
旧式とは言えオーストリア=ハンガリー帝国海軍の水雷艇などを引き継いでいる以上、アドリア海の航海の安全を確保するためにも魚雷艇、水雷艇を一掃する必要に迫られた遣欧艦隊はカッタロ港の封鎖もしくは軍港施設の破壊を目論む。
27日に隣接する港湾都市ラグーサへ圧力をかける意図を含め報復としてラグーサ旧市街にほど近いロブリイェナッツ要塞に艦砲射撃を加えることでその存在感と海軍力を誇示したのである。
この艦砲射撃で金剛、比叡の2隻から放たれた14インチ砲弾は3斉射分48発、要塞の破壊程度であればその半分もあれば充分であったかもしれないが、完膚なきまで叩き潰すという意思を視覚効果(艦砲射撃と要塞の完全破壊の両方)によって印象付けることが重要であった。
特にラグーサはユーゴ領内でも有数の港湾都市であり、その影響の及ぼすところは他の都市よりもはるかに大きく、ユーゴ政府及びクロアチア独立勢力にとっては激震であったことは言うまでもない。
国際的に悪役扱いされ、またアドリア海の封鎖という現実で彼らの生活は確実に脅かされていたが、遣欧艦隊による視覚効果としてそれは今までの不安という水準をはるかに超え、現実的な恐怖と変わったのであった。
事実、ラグーサ旧市街にあり比較的高い位置にあるミンチェタ要塞には砲撃から1時間と経たず白旗が掲げられ、沖合に遊弋する遣欧艦隊へラグーサ市の代表団が使節を派遣するという事態が発生し、事態を把握したユーゴ政府もラグーサ市の行動を反乱と看做し、モンテネグロに駐留する軍の一部をラグーサへ向かわせ鎮圧することを宣言する。
ラグーサ市は市民の安全を確保することを優先し、降伏を決意するが、市内の駐留軍はこれに反発し市長を射殺すると戒厳令を発し市内の制圧を図るが、恐慌状態に陥っていた市民はこれに反発し市内各所で軍と市民の衝突が繰り返された。
無論、遣欧艦隊も座視するつもりはなく、ラグーサ市長との約定を根拠に1個連隊が急派されることとなり、ラグーサ占領が決定された。これにはイタリア政府も同様にイタリア系市民の保護を理由にイタリア軍の派遣を宣言することとなった。
ここに日伊両国によるユーゴ侵攻が始まったのである。
だが、意図しない戦争状態の開始とラグーサにおける秩序崩壊はダルマチア全域に波及するにそれ程の時間は必要なかった。イタリア系住民はイタリア軍の派遣というイタリア政府の言葉を信じ降伏を強硬に主張、クロアチア人たちとともにユーゴ軍及びセルビア人への闘争を開始したのである。
ダルマティア中部のスパラトは親イタリア派が急速に台頭、親クロアチア派とともにユーゴからの離脱を画策するが、彼らもまた主導権争いを始め、三つ巴の戦いを始めてしまったのである。
日伊両陸軍部隊は6月2日にラグーサへ上陸を開始、市内を占領するモンテネグロから移動してきた鎮圧軍を市街地戦の末4日には完全に掃討するに至る。
この時、重砲が揚陸出来ていなかったこともあり、駆逐艦による12.7cm砲弾での支援砲撃が行われていたが、先に揚陸されていた八九式重擲弾筒は市内各所で面制圧に用いられ多大な戦果を挙げていた。
持ち運びが出来る歩兵直接支援兵器としてその開発意図を上回る戦果を上げたことは戦闘詳報に今後の量産と改良を望むと記されていた。
また、同じ戦闘詳報には機関短銃では敵の制止に有効であるが威力不足であり、また弾薬がすぐ尽きるという問題があり改善を要望する旨が記されていた。いわゆる突撃銃の要望を最初に記されたものであるが、これが後に帝国陸軍を震撼させる大論争の引き金となるものであったのは言うまでもない。




