火力優勢で行くと言うのは簡単だけど
皇紀2591年 6月5日 帝都東京
参謀本部からの命によって雑多な試作機動砲は有坂海運の横浜港発着の欧州便に積み込みが進んでいる。この定期便はドイツ・ヴィルヘルムスハーフェンと横浜を結んでいるが、欧州からの主な貨物はドイツ製の自動車や工業製品であり、日本からの貨物はドイツで不足する希少資源のインゴットや工芸品が多い。
少量のタングステンが自動車や工業機械へと化けるのだから交換レートは恐ろしく日本にとって有利と言える状況であるのがドイツにとっては歯痒いものである。だが、タングステンを大量に輸出出来るのは支那動乱以後、実質日本くらいなものであり、相対的に安価である方だと言っても良かった。
試作砲は大隊編制単位で試作製造されていた為、基本的には12門と予備部品が存在する。
帝国陸軍では1個大隊は3個中隊、1個中隊は2個小隊、1個小隊は2個分隊でそれぞれ構成される。一個分隊は、軍曹または伍長の分隊長以下八人で砲一門を操作することを基本としているが、有坂重工業での試作においても同様の編制に即時適応出来る様に12門1セットでの開発をしていたのである。
所謂、増加試作、拡大試作というものだ。実質的な量産体制への準備も同時に進めているのであった。これは有坂重工業における基本であり、試作時におけるロスは大きくなるものの、すぐにでも量産体制に入れることで戦時における生産増強への布石でもあったのだ。
だが、九〇式野砲、九一式十糎榴弾砲の機動砲化という問題に対しては明らかに負の側面が出ていたのである。量産もされない納品拒否、再開発の連続で文字通り大赤字だったのだ。
しかし、参謀本部も砲架や足回りの出来は兎も角、砲の性能そのものは従来の既存砲と変わらないため、ある程度のデメリットを許容すれば十分な火力であることから独立砲兵として大隊単位で運用すれば良いと割り切ったことで納品受領することとなった。尤も、正規品ではないので帳簿外処理であるが、それでも開発費の一部は支払われたことで赤字の補填にはなったことで有坂総一郎はほっとしていたのである。
試製一号砲を配備する独立砲兵第一大隊、試製二号砲を配備する独立砲兵第二大隊、試製三号砲を配備する独立砲兵第三大隊、試製四号砲を配備する独立砲兵第四大隊、試製A号榴弾砲を配備する独立砲兵第五大隊、試製B号榴弾砲を配備する独立砲兵第六大隊という臨時編制が行われることになり、富津での試験や試射に関係した砲兵たちを分散配備させ、内地部隊から抽出した砲兵を補充させることで定員充足を図っている寄せ集めではあったが数日のうちに部隊が構築されたことには驚かされる。
本来、大隊を構成する3個中隊のうち1個中隊は榴弾砲を配備、2個中隊は野砲を配備するのであるが、帳簿外の装備を正規編成と同等に扱う意味がないために集中運用させることとしている。無論、これは砲の信頼性が劣っていることへの手当ても含んでの処置である。
だが、員数外の砲であるとは言っても、機動野砲48門、機動榴弾砲24門というまとまった火砲は実質的に2個砲兵連隊の増勢と同義であり、実際に受け取ってみると帝国陸軍にしてみれば気が大きくなるのは仕方がないと言えた。
なにしろ、年間予算での計画生産ではこの数字を揃えようと思えば戦時でもなければ無理であるからだ。史実において九〇式野砲は200門、機動九〇式野砲は600門の生産数である。九一式十糎榴弾砲は1100門、機動九一式十糎榴弾砲は100門という生産量から考えても、この数字が如何に大きいかを示している。
そして、史実において陸軍における大口径砲を製造出来た拠点は陸軍造兵廠大阪工廠のみであるが、有坂重工業において同等の製造能力があることで単純に火砲の生産能力が倍になっていることに注目したいところである。
逆に言えば、大阪工廠しか火砲が製造出来ないことこそ陸軍の火力不足の原因であると言っても良い。無論、平時に過剰な生産力は必要ないが、いざ戦時になって増やせるものではない以上、肩代わりする必要がどうしてもあったのである。
無論、日本製鋼所なども製造能力はあるが、陸海軍に砲を降ろす以上、生産力には限りがあり、陸軍側のみ対応するわけにはいかない。そして艦隊増強が目前であることは海軍だけでなく、造船メーカー、鉄鋼メーカーにしても常識であり、今後は海軍向けの受注をメインとして他の受注を引き受ける体制に移行しつつある。
結局のところ、陸軍向けの砲の生産を引き受けることが出来るメーカーは実質有坂重工業くらいなものであったのだ。




