機動砲開発の顛末<1>
皇紀2591年 5月30日 帝都東京
有坂重工業の主力工場である帝都工場は事業の拡大によって手狭となり、東京湾を挟んだ木更津に主力工場を増設していた。そして、陸軍関係の事業を主体的に行う技術開発部門と試作工場は陸軍省技術本部富津試験場に隣接する形で存在している。
この富津事業所が有坂重工業にとってこの世界における歴史介入の動力源と言っても良かったのである。
荒木貞夫中将による九〇式野砲の機動砲化はここで行われているが、その開発は紆余曲折の連続であった。荒木からの依頼は表向きは有坂重工業による提案という形を取り陸軍省に持ち込まれ、陸軍省側もそれに興味を見せたことでスタートした。
陸軍省側は機動砲という概念について興味を抱いていたが、十分なトラックや牽引用トラクターがないこともあり、運搬台車に九〇式野砲を積み、これをトラックに牽引させることを逆提案してきたのである。
この陸軍側の提案の裏には制式採用間近である九〇式野砲に何か手を加えることで配備遅延を起こすことを恐れた事情が見え隠れしていた。また、トラックが十分にない時点での機動砲の必要性も低いことから運搬台車程度で十分だという認識であったのだ。しかも、調達数もそれほど多くなく、駐屯地と港湾施設、鉄道駅までの輸送に使えばよいという割り切り方であったのだ。
この逆提案に有坂重工業の設計陣は非常に不満を覚えていたが、陸軍省の機嫌を損ねるわけにもいかず、営業部門の調停もあり、不承不承ではあるが運搬台車の設計を始めたのであった。
いざ、運搬台車の開発が始まると一ヶ月もしないうちに基本設計が完了、試作台車は開発開始から6週間で完成した。
「載せて運搬出来ればいいんだろ? その程度なら片手間でも出来るさ」
設計陣にしてみれば、正直なところ言えばそんな気持ちであったのは間違いなかった。だが、それが紆余曲折の原因となる。文字通りの運搬台車が出来上がり、初期調達数もセットで納入したのが開発開始から2ケ月目のことであったが、これに陸軍省は大いに不満を漏らすことになるのだ。
「なんだこれは! 運搬台車じゃないか! 運搬にしか使えんじゃないか!」
これには有坂重工業側も大いに反発をしたのである。
「そっちが運搬台車で良いというから、運搬するにあたって最適な台車を造ったんだ。しかも、全数揃えて納入したのに文句言われるとか何考えてるんだ!」
「陸軍予算も考えて経済的で今後も調達がしやすい様に廉価で簡易な構造となる様に配慮して開発したというのに、心外だ!」
営業開発揃って陸軍省側と大喧嘩を繰り広げたのであった。その結果、技術本部が仲裁するという事態になるのであった。元々技術本部は有坂重工業の提案には全くノータッチであったが、納入される運搬台車の受領と実用評価で関係するためその場にいたのである。彼らにしてみればとばっちりだが、懇意である有坂重工業との関係悪化は避けたいという意識から仲裁に動いたのである。
有坂重工業と陸軍省のすれ違いは担当者が代わっていたことによるものであった。
当初の担当者は文字通り陸軍の実情から運搬台車で十分という認識であった。だが、引継ぎ時に機動台車と伝えたことで、後任者の認識が変わっていたのである。
運搬台車または輸送台車という言葉で伝えていれば、齟齬はなかったのであるが、機動台車という単語では意味が変わってしまい、台車に載せたまま戦闘にも用いることが可能であるという認識につながったのであった。
これが齟齬の原因だった。陸軍省側は戦闘行動可能な台車、有坂重工業側は輸送のための運搬台車。これでは認識が異なるのは当然のことである。しかも2ヶ月という短期間での開発であったことで期待が膨らんでいたこともあり失望に変わったそれが引き金になったのである。




