黒幕たち<2>
皇紀2591年 5月15日 大英帝国 ロンドン
マクドナルド内閣の外務大臣を務めるアーサー・ヘンダーソンは29年の労働党内閣成立以後、ソヴィエト連邦の国際社会復帰に向けた道筋をつけて来た。
支那動乱の裏にソ連の影を見て支那大陸秩序維持を望む大英帝国の意向を事あるごとにソ連側に伝え、同時に欧州社会の一員としての振る舞いを求めてきたのだ。だが、それはスターリンにシベリア・満州に向いていた視線をベッサラビア・ポーランドへ向ける結果となった。
日本側の視点ではソ連が極東に釘付けであるという前提で欧州介入を試みたにも関わらず、想定外のソ連の介入によって番狂わせになったのはこういった事情にあった。
「ポーランドに奪われた領土を回復する良い機会ではないか、ヘンダーソンの善意を利用してやろうではないか……レーニンが扱いやすく騙されやすいと評していたが、やはりそうであったな」
スターリンは表向き友好的に接しつつ自国にとって有利な条件での経済交渉を引き出すなどヘンダーソンはこの数年スターリンの手の上で踊っていたのだ。
ヘンダーソンが自身がスターリンに踊らされ、善意の欧州社会復帰への手助けのつもりが利用されていたことに気付いたのはルーマニアに対するベッサラビア割譲要求によってであった。
「なんという強欲な男だ。我々との交渉で得たモノだけでなく、領土まで欲するとは……それどころか、ポーランドを唆してテッシェン侵攻を促すなど許されん!」
大英帝国議会においてヘンダーソンは怒り狂って答弁していたが、同じく議会に出席しているウィンストン・チャーチルは彼の怒りを鼻で笑っていたのである。
軍情報部(MI)からの東欧情勢に対する報告書が野党保守党などの要請で議会に提出されて自身の失策であったと気付かされたヘンダーソンにとっては屈辱以外の何物でもなかった。
「外相、過ぎ去ったことは仕方ない。今はあなたの問責をしているわけではないのだから、明日からどうするか、それに対し答弁を願いたい。そうですな、日伊両国と協調して大陸の問題の解決を図るか、無法者たちに対し何らかの制裁を行うか」
チャーチルは簡潔に今後の方針を迫る。
日伊両国に対し支持を与えていたが、それ以上ではなく、欧州大陸への介入について明確な方針は出していない大英帝国政府にとって列強としての責務を果たすべき時だとチャーチルは促していた。
だが、そうは問屋が卸さない。
大英帝国は今この瞬間も財政赤字にあえいでいたのだ。赤字の理由は2つ。世界恐慌によって経済情勢の悪化が原因での歳入不足、そしてインコンパラブル級超巡の大量建造という海軍の建艦予算である。
「そうは簡単に言わんで欲しい」
フィリップ・スノーデン財務大臣はヘンダーソンに代わって答弁する。
「チャーチル卿、卿が、マッデン前第一海軍卿らと推し進めたインコンパラブル級が海軍と政府にとって非常に重荷になっている。フィールド第一海軍卿と海軍は目下、賃金交渉によって海軍予算の捻出を行っている……だが、次回の軍縮交渉によっては海軍は勢力均衡の原則から艦隊整備に傾くだろう……そういった状況で我々は雇用保険の削減といったところまで踏み込んで歳出削減を必死に行っているのだ……その状況で派兵などとんでもない」
「財相、今は公債発行によって戦費調達、そして日本の様に大規模な公共事業による雇用と需要の創出を行うべきではないのかね? 緊縮財政でこの恐慌を乗り切れると言うのかね?」
チャーチルはスノーデンに挑戦状をたたきつける。
自分が財務大臣であった頃、日本が列島改造に突っ走っていたそれを知っていたがそれほど気にもかけなかったが、情勢は今は異なる。明らかに日本のインフラは強化され輸送力は格段に上がったのである。
それどころか、太平洋沿岸に集中した工業生産力を日本海側へシフトさせ、朝鮮東岸、沿海州、樺太・北海道との一体経済圏を造り上げている。
「我々政府は鋭意努力しておる。他国のそれが我々に適切な手当てだとは思わん」
「だが、先日を私が目にしたとある経済学者の書籍による今の日本のそれは自分が理論構築しかけているそれを実践していると評していたな……彼は蒙が開かれたと大絶賛していたがね……」
「チャーチル卿、機会があれば目を通させていただくが、今はそのような話ではない。政府としては今後も歳出削減による財政の再建を優先させていただく……欧州大陸の小競り合いには我々は関わらない。日本が責任を持つというのであるから、彼らに任せれば良いのである」
スノーデンはそう言うと答弁を終え席に戻った。チャーチルは言いたいことがあったが今は時機ではないと敢えて黙ることとした。
――奴らがまんまと満州を手に入れたことを忘れたのか? 今の連中は今までと違い、我々の足元を見て行動しているのだ……それがわからんとは……。大英帝国の政治家も質が落ちたものだ。
チャーチルは嘆息すると内閣の面々に視線を向ける。そこには神経質な表情といい加減にしてくれという表情の閣僚が居並んでいた。




