黒幕たち<1>
皇紀2591年 5月15日 帝都東京
市ヶ谷の有坂本邸に東條-有坂枢軸に与する人物が一堂に会していた。定例の有坂邸謀議ではあるが、参加者たちの表情は皆一様に硬い。
「有坂よ、ちと風呂敷を広げ過ぎたのではあるまいか?」
東條英機少将は難しい表情を浮かべる面々を代表するかのように口を開く。
「はぁ……流石にポーランドのチェコ侵攻までは想定外でした……。この調子ですと……ギリシアがユーゴに侵攻することも考えられるでしょう……アレキサンダー大王、そしてギリシア人の聖地であるマケドニアを回復するという名目で……その場合、ギリシア国民は賛意を示すでしょうね」
有坂総一郎は事態の複雑化に困惑の表情を浮かべつつ考えられる事態の一つを提起する。
ポーランドがチェコスロヴァキアに侵攻した事実は史実のドイツによるチェコスロヴァキア解体の際に実際に行われたことから考えられる要素ではあったが、まさかここまで素早く動くとは思いもよらなかったのである。それも、真っ先に動くなど想定外だった。
「漁夫の利を得んとする国家が存在する限り、若槻・高橋演説による八紘一宇理論は無制限欧州介入へとつながりかねません……それでは満州・支那だけでなく、欧州にも一定の駐留軍を派兵し続けることとなり、国庫に相当な影響を与えます……出来得ることなら出来るだけ早期に手を引くべきかと」
大蔵官僚の賀屋興宣は東條の仲介でこの場に参加することになって久しいが、シベリア出兵以来の大規模外征を行いつつある陸軍には批判的であった。無論、軍縮条約明けを見込んだ海軍の動きにも目を光らせている。
「だから、私は反対だったのだ。バルカン半島は欧州大戦の引き金だったのだ。そこに我が帝国が再び首を突っ込むなど大戦を再び起こすようなものだ」
タカ派として知られる外務大臣森恪だが、流石に今回の企みには慎重であり反対であった。だが、八紘一宇の実践という理屈によって不承不承賛成に回っただけに事態の複雑化に最も反発を示す。
だが、欧州列強の世論がコスモポリタニズムであると評価し、日本の姿勢を認めていることもあり、渋々だが内閣では介入推進派として動いているという矛盾があっただけに彼の思いは複雑である。
「ですが、国際資本は帝国の姿勢を評価しており、同時に高い経済成長もありビジネスパートナーとしての信頼を得たことで投資が増えているので全くの無駄ではありません。我が傘下の武蔵野鉄道や西武鉄道には欧米の鉄道車両メーカーが新型車の開発と受注を求めて来社することが多いと聞いておりますぞ……五島君の目蒲電鉄もそうだろう?」
「そうですな。我が社には横浜に支社がある商社が売り込みに来ておりましたな」
財界人である堤康次郎、五島慶太は欧米列強の資本が入ってくること、取引が増えることを歓迎していた。
彼らにとっても自社の車両や設備の更新に国内産の品質や性能が劣ったモノよりも進んだ技術を有する外国製品を得ることが出来るならその方がメリットが多いと考えていた。無論、購入した後に日々の整備などで消耗するモノについてはライセンス国産化して内製化を企んでいるのである。
「陸軍省に入った情報だと、チェコ軍はシベリア出兵時の我が軍の様にトラックに機関銃部隊を載せて強行突破と追撃を繰り返したという。ポーランドは騎兵隊が全滅して士気喪失状態であると言うが、ワルシャワ駐在武官によると動員が掛かっているそうだ。兵を失ったが戦争目的は今のところ達しておるから最終的にはポーランドがテッシェンを得ることで手打ちになる可能性は高いが……」
東條はそう言うと口をつぐむ。
「東條さん、そうなった場合、チェコスロヴァキアの解体か分割に進む可能性が高いということではないのかね?」
森は東條が口に出来なかったことを明確に答えを求める。
「……その通り、ズデーテンラントやカルパティアなどチェコスロヴァキアの被支配民族を隣国の同胞が煽り、分裂状態に陥ることは十分に考えられる。実際に、ハンガリーは既にその動きを見せていて、カルパティアなどで暴動やストライキが起きている場所もあるそうだ」
「外務省はその報告を受けていないぞ? 確かなのか?」
「あぁ、A機関からの裏付けもある。昭和通商の工作員からも報告が上がっている……」
東條の言葉に森は絶句する。
森や外務省が想定しているよりも、事態は進行していることが彼にダメージを与えたのだ。
「森さん、あなたが悪いわけではない。チェコスロヴァキア、オーストリア、ユーゴスラヴィアから外交官が追放されたのだから情報収集が困難になるのは仕方のないことだ。たまたま、我々陸軍は間者を放っているから通常では得られない情報を握っているにすぎん」
「そうであって欲しいがな……」
森は疲れ切った表情でそう言うと御猪口を一気に呷った。




