火事場泥棒と漁夫の利を狙う国家群
皇紀2591年 5月5日 スイス ジュネーブ
中欧派遣軍の増援がイタリア・タラントにおいて訓練に明け暮れていた頃、スイス・ジュネーブの国際連盟総会は荒れ狂っていた。
ユーゴスラヴィア政府の強硬姿勢とクロアチア独立勢力の事実上の内戦状態に陥ったこと、イタリア領フィウメに駐屯する大日本帝国中欧派遣軍がクロアチア方面への侵攻を匂わせ、イタリア軍も同様にスロベニアへの侵攻を匂わせていたことが欧州各国に動揺を招いていたのだ。
また、ルーマニアはソヴィエト連邦のベッサラビア侵攻の可能性を主張し、トルコにボスポラス・ダーダネルス両海峡の対ソ封鎖と英仏の無害通航を要求していた。これにはローザンヌ条約に基づく海峡委員会が召集され、英仏は対ソ封じ込めを理由にルーマニアの要望を支持し、トルコへ艦隊の通行を認めるように迫っていた。
だが、トルコにとっては両海峡の主権回復を為したばかりということもあり、むしろ、両海峡の封鎖を指向していた。船舶航行を制限することでイスタンブール港などにおける荷扱いを増やし自国の鉄道を使い関税収入や運賃収入を目論んでいたのである。そこにルーマニアが泣きついて来たことでトルコにとって風向きが変わったことを意味していた。
これが国際連盟総会の紛糾、混迷の原因となっていたのだ。
トルコはソ連とのモスクワ条約、カルス条約によって事実上の同盟国となっていたこともあり、指導者であるケマル・ムスタファは共産主義者の台頭を抑え込んではいたが、対ソ外交重視の姿勢を崩すつもりはなかった。そのため、紛争の拡大を封じることを目的に両海峡の事実上の封鎖を逆提案したのである。
このトルコの姿勢はルーマニア代表団を激怒させ、同様にソ連の脅威にさらされているブルガリア代表団も同様にトルコへの非難声明を出すという状況になったのである。
この経緯もあり、ユーゴスラヴィアを支援しようという意思のある国家は小協商のチェコスロヴァキア程度となっていたのだ。だが、チェコスロヴァキアもズデーテン問題によって英独仏によって圧力をかけられていたこともありユーゴスラヴィアを有効に支援する状況にはなかった。
だが、そんな中で東欧の大国を自負するとある国家は国際社会の空気を読むということをしなかったのである。そう、ポーランドである。あろうことか、ポーランドはチェコスロヴァキアにシュレジエンのテッシェンを要求し、軍を動員したのである。
欧州大戦後のオーストリア=ハンガリー帝国解体によって旧帝国領域はバラバラに独立・割譲されたのであるが、同じく独立したチェコスロヴァキアとポーランドはテッシェンを巡って20年に領土紛争を起こし、結果テッシェンを分割してそれぞれが統治することになったのだが、この時にポーランドは領有した地区だけでなくテッシェン全域の獲得を目指すことを決意していたのだ。
そこに英独仏伊の四大国によって圧力が掛けられチェコスロヴァキアが身動きを封じられたことを好機と見たポーランドはテッシェン全域を獲得するために動き出したのだ。これには世界恐慌以来低迷する国内政治の不満を民族主義によって逸らすことも目的としていたことで首都ワルシャワでは国威発揚と士気高揚を留守部隊が軍事パレードを行われるという念の入れようだった。
ポーランド・ソ連戦争による勝利もポーランドに自信を与えていたこともあり、ご自慢の騎兵連隊を中心とした快速部隊がクラカウに集結し、電撃的侵攻を行う構えを見せていたのである。




