ハンガリー王国、起つ!
皇紀2591年 4月15日 欧州情勢
大日本帝国が一部勢力の意志によって引きずられる形で欧州へ介入することになり、艦隊と陸軍部隊がインド洋上セイロン島沖を航海している頃、欧州においては事態が進行していた。
イタリア王国からの支援を受けていたクロアチア人叛乱勢力が4月10日にクロアチア全土で一斉蜂起を行ったのである。
この事態はイタリアも知らされておらず、日本との関係上、また国際連盟総会によるクロアチア支援も民族浄化につながるという理由で停止していただけに寝耳に水の事態であったのである。
国際連盟総会において一定の歯止めをかけるという意図で矢田在スイス公使の演説が行われていたが、クロアチア人叛乱勢力は国際社会の介入前に既成事実として実効支配地域を確保しようと動いてたのである。これは完全に日本側の油断であった。
後詰が来ていない時点でのユーゴスラヴィア領内への侵攻は戦力の逐次投入でしかなく、狭い地域であるとは言えど旅団単位の部隊では賄いきれないため抑止力として存在感を示し、国際社会での外交演出で時間稼ぎをしようと考えていたが、日本軍の後詰が到着するまでの2週間程度の期間を利用された形になったのである。
無論、イタリア側は面子を潰された形になったことでムッソリーニは激怒し、クロアチア人叛乱勢力を公然と非難し、自治政府や独立政府が出来たとしても否認することを明言し、クロアチア・ユーゴスラヴィア(セルビア)双方に停戦を呼び掛けた。
イタリアとしても本格的に介入するにしても日本の後詰が来てからであるし、国際社会で批判の矢面に立ったばかりのユーゴスラヴィア・クロアチア双方が国際社会をガン無視で行動を起こすとは思いもしていないこともあり、動員体制は整っていない。
ハンガリーは逆に動員令を発し、国境地域には軍を派遣し、周辺国が何か動きを見せたらすぐに行動を起こす体制を3月31日の時点で軍に指示を出していたのである。また、ミクローシュ・ホルティ王国摂政はドイツ・ベルリン駐在大使にチェコスロヴァキアへの圧力をかける様にドイツ政府へ働きかけを行うよう指示していた。
ハンガリー側の動きはユーゴスラヴィア(セルビア)にとって背後を襲われる可能性を産み出すことになり、結果として軍の主力をクロアチア地域から4月3日に撤収し、セルビア地域などに展開させることを優先せざるを得なくなったが、これがクロアチア人叛乱勢力の一斉蜂起の隙を生んだのである。
セルビア人にとっては前門の虎後門の狼というべき状況となったが、クロアチア人は所詮はイタリアから支援を受けている存在で、イタリアが支援を中断した今、当面の敵はハンガリーを意識せざるを得なかった。
ルーマニアはトランシルヴァニアにおいて動員令を出すことを検討していたが、ソ連赤軍がウクライナ方面で活発化していることを察知するとハンガリーに対する圧力よりも北方への備えを優先することを選び、ユーゴスラヴィアを見捨てることにしたのである。これにはハンガリーと水面下で同意したことでハンガリーも東部国境から軍を引き北部国境と南部国境へ戦力を再配置することでユーゴスラヴィアへの圧力を高めることに繋がったが、これは4月13日のことであったのだ。
チェコスロヴァキアはハンガリー国境へ軍を集結させ圧力をかけようとしたが、政府内部やスロヴァキア地域の反発が噴出し、身動きが取れなくなったことで沈黙したのである。
これによってハンガリー軍がヴォイヴォディナへの侵攻を阻む障壁は取り払われ、国内向けには失地回復と国威発揚を訴え、国外向けには統治能力を喪失している無政府地域に秩序をもたらすと宣言が開始されたのである。




