チチハル邀撃戦
皇紀2591年 3月12日 満州総督府 チチハル
石原莞爾率いる所沢教導飛行団は関東軍に配属されると各地を転戦、空中偵察や爆撃と馬車馬の如く働かされている。
尤も、その理由を陸軍上層部もしくは地上勤務者に聞くとこう答えが来るだろう。
「いや、アイツらを野放しにしたら地上勤務の連中が苦労する……空を飛んでいても迷惑だが、まだ飛行機を酷使されて整備させられる方がマシだ」
「連中が暇を持て余すと酒と女で無法地帯化する。ただでもロクデナシ集団なのにこれ以上の面倒は御免蒙る」
どこ行っても彼らは教官直伝のロクデナシだったのだ。
板挟みにあった石原は関東軍司令部に掛け合ってガソリンの優先供給を勝ち取り、その代わり地上で問題を起こさせないと誓約し連中を好きなだけ空を飛べるようにしたのであるが、結果として、彼らには連日の空中勤務が命じられ、練度は世界トップクラスと言えるほど向上し、空中戦の技術を隊内で競い合うことでシベリアに赴任したゲオルギー・ジューコフ将軍の命で偵察飛行しているソ連機を一機残らず撃墜し続けていたのである。
この事態に流石のジューコフも危機感を感じ、空中偵察ではなく、地上からの斥候で情報を得ようと試みるに至った。
結果、地上における小競り合いと威力偵察が急増し、北満州に長い塹壕線が構築され、欧州大戦の西部戦線同様に膠着状態に陥ってしまったのである。こうなると双方ともに決め手を欠き、空中哨戒と時折空中戦という欧州戦線の再現となってしまった。
無論、列車砲による一斉砲撃という切り札もあるが、ソ連赤軍に本格侵攻という意思がない時点で切り札を投入するのは早計と関東軍は考え、重火砲陣地の構築とそれによる嫌がらせ程度の砲撃が繰り返されていたのである。
ソ連側にとっても情勢は同じであった。満州において本格的侵攻をする意思はなく、あくまで主攻軸は蒙古高原から北京方面へのものであった。北満州を保持しているのもインフラが弱い蒙古地域に対する側面防御線という位置づけであり、そのために兵を張り付かせている程度である。
とは言っても、貴重な航空戦力を浪費しているという事実をモスクワに知られては不味いため、大規模な航空攻撃を行い損害の帳尻を合わせるという意図でジューコフはハイラル飛行場からチチハルへ空襲を決意したのであった。諜報活動によって得ていた所沢教導飛行団の実戦力を上回る40機もの戦闘機を動員しての空襲作戦が12日早朝に実施された。
塹壕線の監視哨からの報告でチチハル上空に所沢教導飛行団が急行し、大挙襲来してきた敵機集団に対し、太陽を背に襲い掛かるというセオリー通りの攻撃を仕掛けると編隊を乱したソ連機をシャチの如く食らいつき次々と撃墜していったのである。
「イヤッホー! 久々の実戦だ。最近は巣に籠っていた露助どもが出張ってきたんだ、一匹残らず叩き落してやるぜ」
鬼神の如き一方的な蹂躙をする所沢教導飛行団のそれは事実上、ただの虐殺でしかなかった。倍する戦力であったソ連側が一方的に叩き落されていくが、そこにあったのは練度の差だけでなく、無線による後方からの攻撃・避難指示があったからである。
一種の電子戦ともいえるそれであった。安全圏から観測しつつ敵の標的になりそうな味方機に注意を促す程度ではあったが、それなりに効果を発揮していたのであった。
これによって12日に発生したチチハル邀撃戦は撃墜スコア36を数え、ハイラルに存在するソ連機を事実上全滅させるに至った。被撃墜は3機であったが何れも脱出・不時着によって乗員は無事に帰還している。ソ連側の乗員も脱出に成功したものが10名程度存在したが、彼らは逮捕・捕虜になり、後に亡命し正統ロシア空軍のパイロットとなったのである。




