オーストリア騒乱<2>
皇紀2591年 3月12日 オーストリア
イタリア王国による圧力と支援によって王党派が確保したチロル地方は独立政権が事実上誕生していた。オーストリア政府はこれに抗議をするが、大日本帝国とイタリア王国が揃ってオーストリア政府の不当性を主張、同時にハプスブルク家の財産を没収したハプスブルク法の廃止と無制限のハプスブルク家のオーストリア帰還を要求したのである。
2月11日の大日本帝国の紀元節における高橋演説に反発したオーストリア政府は即日ペルソナ・ノン・グラータを発動、在オーストリア日本大使館閉鎖を通告、5日以内の国外退去を命じたことから日墺両国の関係は著しく悪化していたのであるが、一連の周辺国の動きも併せて大日本帝国はチェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア両国にも抗議を行い、兵を退く様に通告すると同時に国交の断絶を宣言したのである。
2月27日のイタリア軍の国境への展開によってユーゴスラヴィア軍によるオーストリア圧迫は減ったものの、依然、チェコスロヴァキア軍がオーストリアを圧迫し続けていることは変わらず、チェコスロヴァキア政府のオーストリア政府への不信感は募ったままであったのだ。
というのも、オーストリア政府が日伊両国による圧迫に屈し、叛乱勢力と妥協し、ハプスブルク家の復帰を認めるのではないかという現実的な可能性を捨てきれなかったからだ。
同時にハンガリー政府の動向もまたチェコスロヴァキアにとっては脅威であり続け、ハンガリー政府がオーストリアとの合邦や単独でハプスブルク家の復帰を認めることに繋がりかねないと警戒していたからであった。
だが、同じくオーストリア・ハンガリー両国に圧力をかけていたユーゴスラヴィアは状況が変化していたのだ。3月3日に反セルビア勢力がクロアチアやスロベニアにおいてユーゴスラヴィア軍へのサボタージュ、妨害行為を始めたのである。
理念上ではセルビア人、クロアチア人、スロベニア人を統合し同等に扱うというものであったユーゴスラヴィアであるが、その実態はセルビア人によるクロアチア人、スロベニア人の支配というものであった。
元々、クロアチアとスロベニアは旧帝国領土であったこともあり、工業地域を有する比較的豊かな地域であったが、セルビア・ボスニア・モンテネグロ・マケドニアなどは立ち遅れた農村地域であるため貧しい地域であった。
それを南スラブ人として無理矢理ひとくくりにした挙句、立ち遅れた地域であるセルビア人が主導する政府による独裁統治が始まった29年からクロアチア人とスロベニア人の不満は日に日に高まっていた。
そこに反ハプスブルクという名目でチェコスロヴァキアと共同で圧力をかけるための動員が行われ、物資の供出や輸送に徴用されたクロアチア人、スロベニア人にとっては屈辱でしかなかった。そこに大日本帝国が若槻演説と高橋演説を盾に介入を宣言し、イタリア王国もまたそれに同調すると同時に軍を動員したことで彼らの反抗心に火をつけたのである。
元々熱心にセルビア人主導の政府に従っていたわけではないクロアチア人とスロベニア人にとってイタリア軍とことを構える理由などなかった。それどころか、イタリア王国とはトリエステを介して取引のある彼らにとってイタリア王国は大事なお得意様である。どうせ敵対するなら新たなご主人様面をする田舎者相手にした方が良いと考えたのである。
29年のクーデターによって独裁権を握ったアレクサンダル国王はその独裁権の安定化を狙い新憲法を制定したこともクロアチア人とスロベニア人にとっては許しがたいものであった。
こういった事情による反感と反発が一気に噴出し、抵抗運動の火種となり、こうしてユーゴスラヴィアは自分の蒔いた種で自滅していたのである。
だが、それは大日本帝国……正確に言えば有坂総一郎にとっては好都合であった。ユーゴスラヴィアが自滅するのは時間の問題であったが、それが早期化することはハプスブルク家の復帰という狙いにとっては非常に好都合であったのだ。
中欧という複雑怪奇な地域を包括して統合するには強権的な中央政府ではなく、象徴的な君主による統合である。帝都東京において事態の進行にこれ以上ない好機だと総一郎はほくそ笑む。
この時点で大日本帝国もまた10隻ほどの船団を送り出していた。本来は満州へ派遣するべく準備を進めていた1個旅団をトリエステに派兵したのである。
欧州大戦時においても艦隊以外派遣しなかった大日本帝国がオーストリア動乱に対して陸上戦力を送り込むという事態に欧米の新聞各紙は驚きを持って報道し、同時に大日本帝国が若槻演説を忠実に実践しようとしていることに称賛していた。だが、一部は黄禍論を持ち出し反発していた。だが、英仏伊の各紙はおおむね好意的な報道であった。




