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この身は露と消えても……とある転生者たちの戦争準備《ノスタルジー》  作者: 有坂総一郎
皇紀2591年(1931年)

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皇帝の自治体

皇紀2591年(1931年) 2月13日 オーストリア


 オーストリア共和国においてその成立から10年余り経過したが、オーストリアの政情は安定を見ることはなかった。18年の成立以来、現段階まで12人の首相が乱立し政府による国家統治は容易ではなかったのである。


 そんな中、元皇帝一家であるハプスブルク家の若き当主、オットー・フォン・ハプスブルクへの注目が急速に高まっていた。


 30年11月に成人年齢である18歳に達したことからフランツ・ヨーゼフ1世の成人式に準拠して儀式が執り行われ、この成人式は報道関係者の注目を集めたことで王政復古についての話題が巷に溢れたのである。


 ベルギーに滞在しているオットー皇太子は、ベルギー国民向けへのアピールも兼ね、皇太子の称号やハプスブルク家という看板を前面に出さず、ロートリンゲン家の固有爵位であるバール公爵を称することでベルギー国民から好意的に受け止められていた。


 また、成人に達したことで社交界にデビューしたこと、父帝カール1世への仕打ちへの同情ということもあり彼への周囲の扱いは非常に好意的なものであった。そんな彼に注目をしていたのは社交界や各国君主、貴族だけではなかったのである。自分たちを放逐した故国オーストリアからも視線が向けられていたのである。


 中央政府は反ハプスブルクという建前で否定的であるものの、政界の一部、そして自治体、民衆は時間の経過とともにハプスブルク家へ同情的になり、また反ハプスブルク姿勢に疑問を持つ様になっていたのである。


 その中で、一自治体が「皇帝の自治体」を宣言し、公然と中央政府に反旗を翻したのである。


「いかなるオーストリアの国民も、オーストリアの法によって外国に引き渡されたり追放されたりすることは許されないし、私有財産を奪われることも許されない。法の前には全ての国民は平等とされている。(中略)オーストリアにおける正義は、ハプスブルクに対する特例法によって傷つけられ、法は枉げられた。(中略)我々は例外なくすべての人々のための正義を求める。我々はハプスブルク家のための正義も求める。この恥ずべき法律を廃止しない限り、オーストリアに正義は存在しない。我々はハプスブルク家の人々に対する特例法の廃止を要求する」


 これにはある意味では打算的な部分もあったと言えるだろう。中央政府の安定しない国家統治への批判、社会主義勢力とナチズムの台頭への懸念、君主制への懐古……。それらがハプスブルク家の若き当主に期待を込めて「皇帝の自治体」と称して草の根運動を始めたのである。


 この動きを好機と捉えていた人物が中央政界にはいた。エンゲルベルト・ドルフースとクルト・フォン・シュシュニックである。


 彼らは君主制がナチズムと赤化勢力への対抗、国情安定、国威発揚につながると考え、オーストリアの未来への回答と考えていたのである。


 「皇帝の自治体」を宣言した地方自治体はチロル地方の農村アムパスの村長のそれから始まり、あっという間に1000自治体にも及び、同様にハプスブルク家の地位回復を要求する団体は20を超えていた。


 オットー皇太子は自身への期待感が増していることに大いに満足を得ていたが、それでもなお、オーストリア政府は帝政復古に否定的姿勢を崩さなかった。


 だが、事態は急変する。日本時間2月11日正午に大日本帝国政府は紀元節の行事の中で、オーストリアへ言及したのである。


「我が大日本帝国は万世一系の皇統を戴き、今日においても繁栄を享受している。これはひとえに連綿と続く皇統により帝国臣民が心を一つにしているからである……だが、悲しいことに欧州において友誼を交わした皇帝家は故国を追われ困窮している。若き当主はまさに英邁な皇帝たらんと精進をされているが、故国では如何に思われているであろうか……我が帝国政府は友誼を重んじ、また先の若槻演説において言及した様に我が帝国は公正かつ公平な秩序ある世界の継続を願っている。また、あるべき姿を捻じ曲げている中欧の現状に深く憂慮している」


 紀元節において総理大臣高橋是清の声明はハプスブルク家支援を明言していたのだ。


 これにはオーストリア政府が即日内政干渉であると非難声明を発し、同様にチェコスロヴァキア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、ルーマニア、ポーランドからも反発が相次いだ。


「私は大日本帝国が父祖との友誼を大切に思っていてくれることを嬉しく思う」


 オットー皇太子はベルギーにおいて以上の声明を出すにとどめていたが、その表情には大日本帝国が公然と支援を口にしたことへ期待感が感じ取れた。


 また、帝国政府の声明の後にイタリア政府からも内密にオットー皇太子へ支援の表明がなされた。これは首相ベニート・ムッソリーニも対独緩衝国としてのオーストリアの価値を重視したことと、日伊連携効果によるものであった。


 オーストリア国内でも大日本帝国がハプスブルク家支持を明確にしたことを大きく報じられ、「皇帝の自治体」を中心に保守派が帝政復古を叫ぶ契機になったのである。


 だが……チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアの両国は13日に揃って駐オーストリア大使をオーストリア外務省へ送り込んだのである。


「もし、オーストリア政府が帝政復古に傾くようであれば、我々は宣戦布告する」


 文字通りの恫喝であった。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] オーストリアとハンガリー以外は帝政復古はお呼びじゃないってことね。
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