フーヴァーの憂鬱
皇紀2591年 1月10日 世界情勢
前年から続く支那大陸における不穏な情勢は未だに燻っているが、概ね日本本土においては平穏な年明けとなった。
英独の超巡洋艦が揃って上海と膠州湾にその偉容を示し、帝国海軍もまた空母加賀・土佐を支那方面艦隊に配備し、東シナ海の警備に当たっていたこともあり航空機による頻繁な偵察飛行によって停戦監視を行っていたのである。
当然、この厳重な内政干渉と領域侵犯を繰り返すアメリカ以外の列強へ支那の各政権と人民の不満は高まっており、頻繁にデモやストライキ、不買運動が発生していた。だが、自給能力のない支那において工業製品や嗜好品を流通させているのは列強各国であり、不買運動は自らの首を絞めるだけであった。
この状況に甘んじることに我慢出来ないでいる蒋介石はアメリカ国内のチャイナロビーに働きかけを行い、アメリカ世論を対日批判、対欧州批判に向けようとしていた。この対列強工作はアメリカ国内において一定の理解と共感を生み、連邦議会においても度々対日批判の声が上がるようになっている。
無論、アメリカ政府はこの状況が好ましいとは思っておらず、他国のロビー工作によって国政や外交が左右されるべきではないと声明を出し、一時的に抑え込んでいたが、チャイナロビーは経済的理由を持ち込んで対日批判を周旋し始めたことでアメリカ政府も頭を抱えている状況に陥っていた。
支那利権を有する資本家たちはチャイナロビーとともに門戸開放、機会均等を訴え、それを扇動するのがニューヨーク州知事フランクリン・デラノ・ルーズベルトであった。
だが、アメリカ政府、特に大統領ハーバート・フーヴァーはこの傾向を憂慮していた。「戦争を終わらせるための戦争」と称し、欧州大戦に参戦したトーマス・ウッドロー・ウィルソンと同様のそれを感じていたのだ。
同時にフーヴァーは「戦争を終わらせるための戦争」に続く「世界は民主主義にとって安全でなければならない」というウィルソンの言葉と同様に、ルーズベルトが「世界の民主主義を守るために我々は立ち上がらなくてはならない」と言いかねないと懸念をしていた。
フーヴァーの懸念はどこか確信があった。
――あの男は危険だ。いつか世界を混沌に突き落としかねない……。蒋介石のアルカイックスマイルの裏にある野望と奴の思惑が合致した時、我が合衆国は悪魔の契約をするのではないか?
懸念は猜疑を生み、そして自身の閣僚にも同調しかねない存在がいるのではないかとフーヴァーの疑念は膨らむ。
――最近、国務長官の発言が急進的であるのも連中が何か吹き込んでいるからではないのか?
これは国務長官ヘンリー・スティムソンが「アメリカは恥ずべき傍観者になってはいけない」とフーヴァーへ事前の相談なしに発言し、マスメディアがフーヴァー政権が対日硬化に舵を切ったと報じたことで火消しをするために苦労したことからの疑念でもあった。
――全く、どいつもこいつも要らぬ苦労を掛けさせおって……アフリカのど田舎のエチオピアなどどうでも良いが、皇帝就任してから英仏伊と関係を悪化させるような真似をして我が合衆国に後ろ盾を頼むような輩も……自分の国のことくらい自分でなんとかするべきだろう……。
フーヴァーにとって、問題はチャイナロビーの暗躍だけではなかった。エチオピアで一騒動起こす新皇帝もまた頭痛の種であったのだ。




