1931年時点での大日本帝国<11>
皇紀2591年 1月1日 世界情勢
帝国本土について九州地方が最後になるが、北部九州の状況は大きな前進をしていると言えるだろう。
出光商会が徳山に製油所を設置するより以前に新門司付近に石油コンビナートを設置している。このコンビナートによって門司市、小倉市、八幡市、戸畑市、若松市の北九州工業地帯にガソリン供給が普及し、これによってこの地域の自動車化は大きく前進していた。
とは言っても、自家用車の普及については多くはない。大きな顧客は小倉に駐屯する陸軍歩兵第14連隊と野戦重砲兵第2旅団(編制内の野戦重砲兵第5連隊、野戦重砲兵第6連隊)、陸軍造兵廠小倉工廠である。他に官営八幡製鉄所など工業地帯を構成する企業がメインである。結論から言えばトラックの普及が急激に進行したのである。
そして史実よりも陸軍造兵廠火工廠東京工廠の小倉移転が早まったこと、史実以上に大規模化したことがこの地域の工業化の振興とトラックの利用促進が著しかった理由である。
大阪工廠と同じ様に小倉城を中心とする地区に陸軍施設は集中していたこともあり、国道3号線のコンクリート舗装工事が進み、門司港から小倉を抜け折尾、若松に至るまでを4車線道路による整備が行われたのである。
なぜアスファルトではなくコンクリート舗装が行われたかであるが、これは連合軍のドイツ空爆においてドレスデンやハンブルクにおいて多くの犠牲者を生んだことからである。日本におけるB-29の空襲においてもドレスデンやハンブルクと同様の被害が発生したことがあるが、それは45年3月10日の帝都大空襲の時限りである。そう、火炎旋風である。だが、これは原因はアスファルトではない。関東大震災の時と同様に木造家屋の延焼が原因である。
自動車の普及とともに幹線道路の舗装が進み始めていたが、道路を管理する内務省はアスファルト道路の建設を行わないように指導を行っていたのであるが、これには内務省とパイプがある東條英機少将による根回しによって行われているものであった。
そもそもアスファルトとは石油を精製して出来た搾りかすみたいなものである。油が原料であるのだから一定温度まで熱すれば当然可燃物である以上火が付くのは道理である。
結果、ハンブルクなどはこれによって火に油を注いだが如く燃え広がり、火炎旋風を生み出す土壌となったのだ。だが、日本の場合、帝都と言えど舗装されているところは非常に少ないがためにドイツのようにアスファルトが燃え広がるということは殆どなかったのだ。
また、3月10日の帝都大空襲以外では火炎旋風は発生しておらず、10万人規模の死者を出す空襲被害は原爆投下以外には存在していない。その多くが都道府県内各地の合算での1万人単位になっているに過ぎない。
300機以上で東京爆撃は以下の通り。
3月10日:334機(投下爆弾1782t)、死者約10万(1t当たり56名)
4月13日:352機(2140t)、2459名(1.1名)
5月24日:562機(3687t)、762名(0.2名)
5月25日:502機(3302t)、3651名(1.1名)
これを考える限り、木造家屋が多いことで火災による死者が増えることはあっても、火炎旋風が起きない限りはドイツ以上に被害が拡大することはないとわかる。
とは言っても、木造家屋は可燃物であるから注意は必要であるが、わざわざ可燃物で出来た街中に可燃物であり、実質的に燃料であるともいえるアスファルトを敷き詰める必要はないと断じることが出来るだろう。
尤も、この知見をそのまま採用するには無理があるため、関東大震災における火炎旋風とその被害、それと同時に今後の自動車化社会において舗装道路の普及でアスファルト利用が増えた場合という論理で実証試験を習志野原の演習場において原寸大のハリボテの街をつくり、関東大震災と同様に昼時に地震発生したという仮定で行った。
その結果、想定通りにアスファルト舗装が燃え上がり比較用に作ったコンクリート舗装の部分を境に延焼が食い止められたのであった。この検証結果に内務省は大いに影響されたことで道路舗装にはコンクリート舗装を行う様に通達を出したのである。
そして、現在、進行している道路建設と舗装はコンクリートにおいて行われているのである。無論、コストが高いということ、打設から利用可能になるまでの養生期間が長いというデメリットもあるが内務省はそれを許容している。
さて、そんなこともあり、石灰石に困らない北九州地区においてコンクリート舗装が普及し、31年内に福岡市にまで舗装道路が延伸する見込みである。




