1931年時点での大日本帝国<7>
皇紀2591年 1月1日 世界情勢
中部、甲信越、北陸地方においては特別大きな変化は見られない。だが、いくつかの変化が見られる。
天竜川水系における電源開発が史実よりも10年程度早く始まり、泰阜ダムが史実よりも5年早く着工し、30年の年末に完成した。
電力王と称される福澤桃介とその一派が手掛けたものであるが、史実では関東大震災による想定外の資金難で苦労することになったが、この世界では列島改造、弾丸列車計画という名の一大国策事業が行われていることもあり、大手銀行なども新事業やハコモノ建設には融資が出やすいという環境が整っていた。無論、これは融資したらその分返ってくるということを銀行家たちが確信したことによるものであるが。
特に株高に沸いていたアメリカは自国株価だけでなく他の投資先がないか銀行家、投資家問わず目を光らせており、その資金は大量に日本国内へ流れていたのだ。29年の世界恐慌の際に日本だけが影響を受けなかったことから日本の株、社債に投資していた者たちはアメリカの株価暴落で資産を溶かす者たちがいる中で影響を受けずにいたのだ。
資金調達に余裕が出て投資家たちから更なる大規模プロジェクトを要望され資金を積まれたことで福澤は自身の念願であった天竜川水系の開発に乗り出したのである。
これが歴史が変わって天竜川水系の開発が進んだ理由であった。
これらの開発が進んだ結果、中部地方における電力は余裕が出来ると同時に工業発展の下地が出来た、関東大震災によって名古屋周辺に疎開してきた企業にとっても廉価な電力というのは魅力的であり消費電力の増大とそれによる利益が電源開発を加速させるという好循環につながったのであった。
また、鉄道省による東海道本線、山陽本線、中央本線の改軌工事が完了したことで、従来よりも東京~大阪間の時間短縮が可能になった後、30年末には大阪電軌と参宮急行電鉄の直通運転が開始されるようになり、大阪・京都・名古屋・桑名~山田間で鉄道省、伊勢電鉄、大軌・参急連合の三つ巴の戦いが始まってしまったのである。
鉄道省は東京から名古屋経由の直通の急行列車を運行し、改軌による高速化で好評を博していた。中でも午前10時30分に東京駅を出発して午後5時30分に山田に到着する急行列車に乗っていく1泊旅行が東京近郊に住む者にとってとても都合が良く便利であったのだ。
また、大阪方面からも湊町を出発する関西本線急行が山田に昼前に出て昼過ぎに到着することから日帰り旅行で好評であった。
だが、そんな鉄道省の好調な旅客輸送に挑戦するべく伊勢電鉄は狭軌でありながら複線電化と名古屋及び伊勢神宮方面へ延伸を企み、30年末までにこれをほぼ達成した。だが、桑名~名古屋間の橋梁建設までは出来ず、大垣~桑名間を結ぶ養老電鉄を29年末に買収することで代用としていた。
三重県内での電車高速運転と駅間を短くとったことによる沿線乗客の囲い込みに成功したように見えたが、津~伊勢神宮(山田)間においては3路線競合により赤字を増やしてしまったのである。伊勢電鉄は鉄道省に対しては高頻度・高速運転により優位に立っていたが、長距離客は乗り換えが必要であることから敬遠されていたのだ。大軌・参急連合に対してはやはり競合区間において競り負けていた。同じように電化による高速運転が可能な大軌・参急連合も大阪・京都からの直通客を動員出来るためである。
伊勢神宮参拝輸送における三つ巴の戦いはどうなるのであろうか?




