1931年時点での大日本帝国<4>
皇紀2591年 1月1日 世界情勢
北海道、樺太の開発は史実よりも相当な急ピッチで進んでいる。だが、本州では如何だろうか?
軍縮条約は八八艦隊の建造を中止させ、その結果、予算や資材の多くを産業振興に回すことが出来る様になった20年代は有坂総一郎と島安次郎、後藤新平、仙石貢ら広軌派が実権を握ることで鉄道省の方針は大きく舵を切った。
帝国議会における列島改造論・弾丸列車計画演説とその後に続く衆議院総選挙によって有坂一派と結託した与党立憲政友会が大規模財政出動を行い、着実に本州の物流が変化していったことは記憶に新しい。
鉄道貨物のコンテナ化とトラックによる戸口輸送によって物流革命が起きたことは貨物列車の固定編成化とヤード方式廃止に繋がり効率化が図られることとなり、東海道本線、山陽本線、常磐線、高崎線、横須賀線で運用が開始されるとその効率性から順次地方線区に普及していくことになる。
だが、コンテナ化の推進にはフォークリフトやトップリフターといった専用機材が不可欠であり、これが不足する状況からコンテナ代用として考案されたパレット、ボックスパレット専用車が投入され、地方線区はコンテナではなくこれを充てることで不足するフォークリフトなどを使わずとも効率的に荷役作業を行えるようにされた。
理想主義は先行し過ぎたことによってコンテナ貨物は20年早過ぎたと後の鉄道大臣佐藤栄作に言わしめたが、彼は理想主義に走った上司の鉄道大臣仙石貢や旗振り役の総一郎が頭を抱える横でパレット輸送で対応させることを提案したことがパレット専用車の誕生の瞬間であった。
無論、このパレット専用車は史実では戦後60年代後半から70年代前半に実用化されたものであり、それすらも史実に先行すること30年早いわけだが、それらも未来知識というメタ情報を有している総一郎からすれば「その手もあった」という程度のものだが、画期的なことは間違いない。
これらによってコンテナ輸送は主に軍部や大企業、軍需産業が独占するようになり、一般企業など民間が利用するのはパレット専用車という枠組みが出来上がったのである。
鉄道省もコンテナ化を推進したいという思いはあったが、現実的な物流を考えるとパレット輸送が正しい選択であったためフォークリフトなどの取得計画との兼ね合いを考えた結果、コンテナ及びコンテナ車とパレット及びパレット車の割合を1:4というものにして整備を進めていたのである。
また、D50形の大量増備も続き、狭軌から標準軌へ改軌が進んだ結果、従来の最高速度90kmから100kmへ引き上げることとなった。元々の性能から比較的高速運転は可能だったが、改軌による安定性向上と路盤の強化で速度アップが可能となったのである。
同様に、D50形を亜幹線で利用することを目的として軸配置の改造による低軸重化も行われ、それは史実同様D60形として誕生した。これは、物流革命の全国各地への波及という必要性から出てきたものである。
従来の幹線で用いる分には問題ないが、単純に改軌のみを施工して路盤強化していない地方線区に関してはD50形をそのまま入線させることが出来なかったからである。輸送需要が伸びている中で、9600形などの旧世代機では速度面、牽引定数で明らかに不足が目立ってきたこともあり早急に新型機を投入する必要性が生じて来た鉄道省にとって総一郎の一言はまたもや大きく影響されるものであった。
「軸配置を従来の1D1(先輪1軸+動輪4軸+従輪1軸)のミカド形から、従輪を2軸とした1D2(先輪1軸+動輪4軸+従輪2軸)のバークシャー形とすれば軸重が変化するはず……恐らくは1トン前後は下がるでしょう? であれば、カネもかからない改造名義の方が安く済みますし、現場も使い慣れたD50形を種車とする機関車の方が扱いやすいでしょうから、そうしては如何?」
結果、亜幹線用の新型機を設計する暇もなかった鉄道省もすぐさま乗り気となり、これまた20年程度早く実現することになったのである。
だが、逆にこれはD50形の定数が減ることを意味していた為、鉄道省は検討していたがお蔵入りしてしまった78-2形を再設計することで投入することとなった。この形式は北海道室蘭本線に投入された2D1(先輪2軸+動輪4軸+従輪1軸)のマウンテン形D70形と競合する部分があるが、こちらは本州仕様に最適化されて開発が進められD71形として採用された。
ただし、これら史実にない存在はあくまで平時における性能追及仕様であることから、実際には史実D51形やD52形、そしてD61形、D62形が誕生することになると総一郎は予想している。
「ドイツの52形が生産出来れば良いのだけどなぁ」
と相変わらず無茶苦茶なことを言う総一郎だが、それでも戦時設計で証明された台枠省略した船底型炭水車やドイツのワンネ形炭水車を技師たちに伝えて実用化させていることもあり、いくらかは戦時標準設計を先行採用させていたのである。




