有坂邸密談
皇紀2590年 12月19日 帝都東京
アルテミス・フォン・バイエルラインからの電文について見せられた東條英機少将は頭を捻っていた。
「ヴェラドンナ……文書だったか? ほれ、合衆国の赤狩りのそれは……」
「いえ、ヴェノナ文書ですね。それが何か?」
すかさず東條の誤りに訂正を入れる有坂総一郎だが、東條の表情は何とも言えないという表情であり顔色だけで何に疑念を抱いているのかわからなかった。
「あぁ、そうそれだ。そのヴェノナ文書を作る基になった防諜作戦は昭和18年から始まったのであったよな? 今時分に可能性を疑う者が出てくるというのは早過ぎるのではないか? なにか確たる証拠でもあったのだろうか?」
東條の指摘は尤もである。
ヴェノナ文書及びその防諜作戦は戦中にドイツ、フィンランドより入手した暗号書からアメリカ国内における内務人民委員部のスパイ網で活用されていることが判明したことから大きくスタートしたものである。
つまり、東條の言う確たる証拠とは暗号書でも入手して解読したのか、ということであるが……。
「それはわかりません、うちのアルテミスが送ってきたのはこの電文だけですから……一応裏を取るために我が社の特命班を合衆国へ送り込む予定ではおりますけれど……甘粕さんたちからも何らその手の情報は入ってきません……泰平組合さん……今は昭和通商でしたか……からはどうですか?」
「昭和通商からは特にな……アレもまだ改組されたばかりだ。泰平組合の時は民間企業の組合だったが、今は半官半民の国策会社だ。陸軍の予備役士官も社員として各地に配備を進めているところだから機能するのは来年の夏ごろになるだろうな」
東條は首を横に振りながら陸軍側では何ら情報を掴んでいないと明言した。
「財界の方がそう言う空気を察するのは早いのではないのか? 例えば三菱商事とか三井物産とか、そういう連中と情報交換して探るのが良いのじゃないのか? 彼らは彼らで独自の人脈やルートを持っているのだからな」
東條は重ねて言う。
「中島飛行機と仲良くしているせいか、三菱さんとはなかなか一筋縄ではいかないようで」
総一郎は視線を逸らして頬を掻く。
「それと川南工業の川南豊作氏と親交を持ったことが三菱さんを刺激したらしく最近は”商談なら川南さんや中島さんとどうですか? うちでは有坂さんのご希望の取引はどうですかなぁ?”と言われてしまうのですよ」
「全く、何をやっておるのだか……貴様のとこの有坂航空工業に陸軍が出資したのは何のためか、三菱の生産規模が中島に比べて小さいから梃入れして底上げするためであろう? それが三菱と疎遠だなどと許されるか」
東條は総一郎を叱る。
三菱側の面子と縄張りを荒らした格好になっている有坂コンツェルンに問題があるのは間違いなかっただけに総一郎としては申し開きが出来なかった。その上で、三菱にとってのライバル企業である中島飛行機、お膝元の長崎で縄張りを荒らす川南工業と関係を持っているのでは三菱が良い感情を持たないのは道理であった。
「まぁ、良い。私の方から三菱には一言添えておく。有坂規格で作られている工作機械の納入で苦労したくなければ表面上でも付き合いをしてくれないかと言えば治まるだろう」
「面目ありません……こちらも頭を下げて取引の土壌を整備してもらえるように関係改善を願ってみます」
仕方がないなと思いつつも面倒を見てやろうとするのが東條の人柄であった。伊達に”人情連隊長”とは呼ばれていない。誰がどうすると困るのか、面目を失うか、よく見ている。
「三菱のことはきっちりやってくれよ、帝国の命運は貴様の会社のそれに掛かっている部分は大きいと心得よ」
東條は発破をかける様にそう言うと、その話はここまでと表情を変えた。
「陸軍側でも駐米武官や駐英武官などを通して情報収集を行う、外務省……は当てにならん部分があるが……まぁ、そうだな外務次官の吉田茂か、外務大臣の森恪に話を通しておこう……吉田の場合、支那通でもあるし、英米派であるからそれなりに有益な情報を得られるかもしれん」
「では、政治向きに関してはお願い致します……」
「なに、それくらいはな。帝国軍人が閣僚や官僚と会って話をするのはそれ程目立たんが、政治家や官僚と財界人が会って話をするのは目立つからな……とは言っても、しょっちゅう政財軍官の人間が集う有坂邸ならいつものことで済むかもしれんが……」
総一郎の額に汗が滴る。そこには東條が「貴様目立ち過ぎだ」という苦言が入っていることを察したからであった。




