三菱の危機感と面子
皇紀2590年 10月19日 名古屋 三菱重工業
志式飛行艇の展示飛行とその性能に衝撃を受けていた者たちが居た。日本の航空産業を背負って立つ存在である二大メーカーの一角、三菱重工業とその技師たちである。
帝国陸軍はキ20という計画名称を与えた大型爆撃機の開発を三菱重工業に命じており、当時開発されたばかりのドイツ・ユンカース社の大型旅客機ユンカースG.38を基本として設計開発を進めていたのである。
これは東條英機や有坂総一郎が指摘するまでもなく、帝国陸軍は渡洋爆撃によるアメリカ植民地フィリピンのアメリカ軍基地の粉砕を構想していたことによってスタートした計画であったのだが、大きな問題が帝国陸軍を悩ましたのである。
20年代後半においては技術加速は十分ではなく、帝国陸軍の戦略構想は的を射ていたものであったが、現実性がない状態であったことから同時期に既に実用化の域に達していたユンカースG.38に白羽の矢が立ったのは自然の流れであったと言えるだろう。しかし、ユンカースG.38という代物は非常に難物であった。その性能たるや帝国陸軍を魅了したものであるが、その実、クリアすべき課題は多く積みあがっていたのである。
史実において、試作機を製造するのに年産1機という状態であり、試作6号機が完成した時点で、35年となり、太平洋を挟んだ超大国アメリカにおいてはB-17の原型試作機が初飛行しており、B-17は九二式重爆撃機よりも200km/hも優速であるという状態だったことからも明らかな失敗作であった。
しかし、開発当初においては最大5トン、通常飛行でも2トンという18試陸攻連山に匹敵する搭載能力は非常に魅力的であったと言える。つまり、航空撃滅戦における切り札というべき戦術目的に合致する性能だったのである。
だが、思うように進まない量産と元々過大重量であり、同時に性能を支えるべき発動機の出力も低く、信頼性が低いという問題が史実帝国陸軍の期待を裏切ることとなったのである。
九二式重爆撃機
全長:23.20m
全幅:44.00m
全高:7.00m
発動機:
・前期型:
ユ式1型液冷V型12気筒エンジン (正規出力800馬力)×4
・後期型:
ユ式ユモ4型液冷直列対向型12気筒ディーゼルエンジン (正規出力720馬力)×4
最高速度:200km/h
航続距離:2000km
武装:
・7.7mm旋回機銃×8
・20mm旋回機関砲×1
・爆弾各種2000kg(最大5000kg)
この世界においても三菱重工業で開発中の機体は基本的にこの性能に準じている。
だが、それだからこそ、志式飛行艇の展示飛行と性能開示に三菱重工業の技師たちは慌てふためいていたのである。
自分たちが製造する金星発動機を積んだ外国人亡命者たちの飛行艇が、先進国ドイツの技術を用いた重爆撃機のそれよりも遥かに優速であり、尚且つ陸上機化改造の予備設計も行っているというものだから完全に後れを取ったと感じていたのである。
また、開発時点から機体を支えるにあたっての発動機の出力不足は明白であったことからこのまま開発を進めることを断念すると同時に一度ご破算にしてゼロから機体設計を行うことを逆に陸軍省に提案するに至ったのである。
そこで彼らはユンカース社との関係悪化を避ける意図もあり、初飛行が済んだばかりのJu52に目を付けたのである。史実でタンテユーとして知られるこの機体で当面の爆撃機需要を満たすことで帝国陸軍の面子を保ち、同時にユンカース社の顔を立てる方針を立てた三菱重工業はすぐさま陸軍省を動かし、また、ユンカース社と新たな契約を済ませ、Ju52のライセンス国産を早急に進めることとしたのであった。
ユンカース社も世界恐慌のあおりで需要が減っていた時期もあり、三菱側の申し出を受け、契約はすぐに取り交わされ、航空便を用い、図面などを取り寄せると三菱側は独自改造発展を認めさせ、基本設計を検証して双発もしくは3発への改造方針を示したのであった。
Ju52の初期型は単発仕様であり、尚且つ、発動機の出力が小さかったことで性能は凡庸であったが、3発仕様への変更した設計では性能向上が認められ、陸軍省へ輸送機仕様、爆撃機仕様の二つが提示されたのであった。
三菱の面子にかけて一ヶ月で形にしたのであった。陸軍省の審査は暫くかかることであろうが、担当官は三菱側に労いの言葉をかけ、同時に4発機開発の基礎研究を続ける様にと命じたのであった。




