これぞ悪事の醍醐味
皇紀2590年 8月7日 帝都東京
極東情勢は嵐の前の静けさともいうべき奇妙な静寂が続いていた。
大日本帝国は内地において騒乱の火種になる朝鮮人と赤化分子の摘発と掃滅が行われていた。元々朝鮮人は一部以外は朝鮮半島に送還されているため朝鮮王族、貴族の逮捕または拘留によってすぐにこちらは片付いているが、赤化分子の方はそう言うわけにはいかなかった。
元々20年代から徹底して赤狩りが繰り返されていることで、帝国内における赤化勢力は事実上絶滅状態である。また好景気が続くこともあって赤化勢力と結びつく人間は非常に稀であり、一部の文化人や学生がマルクス主義に傾倒してその都度摘発され転向するというくらいなものであった。
だが、国内の赤化分子の萌芽を潰しても国外から入ってくるそれを摘発するのはなかなかに苦労するものであり、摘発しようと動いた頃には国外逃亡されているということが頻発している。
また、外地における赤化分子は内地よりも遥かに活動の余地があることから朝鮮半島の下層階級の朝鮮人に広まっているところもあり、今回の斎藤実総督襲撃の実行犯とその支援組織もこれであった。
朝鮮各地の村で赤狩りを行った結果、いくつかの村が真っ赤に染まっていたこともあり全員逮捕という事例が重なり、そのために地図上から消えた村が出てくる始末であった。だが、赤化朝鮮人が去った村には亡命ウクライナ人などが入植して大農場を営むようになり、結果として彼らが大日本帝国の食料供給に寄与することになるのだが、それはまた別の話である。
しかし、帝国政府と朝鮮総督府は赤化分子の巣窟が朝鮮半島各地に存在すること、今後も拡大する可能性があるという点を重大視することになる。
そして、大日本帝国はあることを思い付き、正統ロシア帝国と秘密協議を開始したのであった。
「現在、正統ロシア帝国ではロシア系コミュニティとウクライナ系コミュニティが対立していると聞く、建国当初は対ソ連で一致団結していたからこその大同団結であったのであるけれども、その脅威が遠のけば違う民族……それも対等な立場であれば尚のこと……」
外務大臣森恪は相対する駐日大使アントーン・デニーキン大将に語り掛けるが、デニーキンの表情は迷惑そうなものであった。
「閣下、仰ることは間違ってはおりませんが、実質的に大日本帝国が我が帝国の庇護者であっても、我が帝国は属国ではないのです、内政干渉と受け取られるようなことを申されても困りますな」
「いえ、これは取引なのです。我が帝国は一つの問題によって国内統治と生産力に影響を受けており、それを解決する方法として貴国との取引を持ちかけているだけなのです」
森はデニーキンの苦情に表情を変えることなく切り出す。
「取引ですと?」
眉がぴくっと動くがすぐに不満げな表情に戻る。デニーキンにとってこれ以上大日本帝国に借りを作るような真似はしたくないのである。大日本帝国が庇護者という振る舞いをすることに常日頃から不満を持っているが、それを否定出来る国力も戦力もない今の正統ロシア帝国では仕方ないと考え、ストレスを感じていたからである。
「左様、取引です。我が帝国は植民地統治をする上で労働力を欲しています。それも、帝国に牙をむく可能性がない存在としてであります」
「ほぅ。そのような労働力があれば我々も欲しいものですな」
「しかし、我々にはそれがなく、あなた方にはそれがある。あなた方、ロシア人にとってお荷物の存在が我々にとってはとても都合が良い存在なのです……ここまで言えばお解りでしょう?」
森の瞳の奥がキラッと光った様にデニーキンは思えた。そして、これはある意味では悪魔の取引でもあると。
自国にとって悩ましい存在であるウクライナ系国民の事実上の国外追放と大日本帝国による受け入れ、そしてその見返りは朝鮮人と相応の経済支援であるとすぐに取引条件は想像が出来た。
「なるほど、国民の交換によって問題解決を図ろうというものですな……」
「無論、これは我が帝国がウクライナ系住民に相応の資産保障といくらかの補助金を出すことによって移民を募るという体裁を整えます。ウクライナ系住民の不動産などに関しては貴国が受け取り、我が帝国が代わりの農地などを提供するというものです。貴国にとって損な話ではないと思いますが如何か?」
「だが、それでは貴国にとって不利益ではないのかな?」
「いえ、そうでもないですよ。我が帝国は不良領民を追放するか、受け入れたウクライナ系の下部に組み込むように細工するのですから……実質的に我々が損をすることは殆どありません。貴国に経済援助することで市場規模が拡大すれば我が帝国にとっては利益になるのですから、結果としての不利益は殆どないと言えましょう」
「追放した不良領民は我が帝国が受け入れる……その際の彼らの取り扱いは?」
「お任せいたします……それは我が帝国の庇護下にない存在に我が帝国は何ら関知することはありません。そもそも、追放そのものは彼ら自身の行いによる罪と罰なのですから」
「なるほど……承知致しました。本国に問い合わせしましょう。但し、経済支援の履行が条件です。我が帝国にとっても彼らは国民であり労働力、生産力であるのですから」
「お願い致します」
森は礼を言うと持参した鞄を開けていくつかの封筒を取り出した。そこにはでかでかと饅頭と書いてあった。
「これは?」
「大使閣下が饅頭をお好きと伺いました故、持参致したものです。お受け取り下さい。これは饅頭です」
デニーキンがそれを受け取るとそれは見た目よりもずしっとした重みがあった。
「開けてもよろしいか?」
「どうぞ」
封筒を開け取り出したものを見てデニーキンは驚くがその直後に笑い始めた。
「なるほど、これは……私の大好物です。山吹色の饅頭……確かに受け取りました。ありがたく腹に収めさていただきましょう」
「では」
森が差し出した手をデニーキンは固く握った。




