女神の憂鬱
皇紀2590年 7月25日 米国東部時間 ニューヨーク
「遭難の斎藤実総督、数度の大手術によって容体安定」
「大日本帝国、テロとの戦いを宣言」
「亡命朝鮮人組織、大日本帝国へ宣戦布告……ただし列強はいずれも支持せず」
「大英帝国、上海にて逮捕したテロリストの大日本帝国への引き渡しを約束」
この日のニューヨークにおける新聞の一面トップや海外の動きを報じる紙面はその殆どがこの手の記事で埋まっていた。事件発生から沈黙していた大日本帝国政府と朝鮮総督府が動きを見せたこと、それに関連しての各国の動静を伝える記事が多いのは仕方がないことだった。
この2週間、日本側が目立った動きを見せないことで帝国政府要人も巻き込まれ政府機能が麻痺しているのではないかという憶測も見られていたからだ。
しかし、斎藤総督の容体安定、そして帝国政府が動きを見せないことで痺れを切らした大韓民国臨時亡命政府を騙る組織が宣戦布告をしたことで事態が動いたのであった。
「帝国はテロには屈しない。また、テロの温床である上海の浄化掃討作戦を実施する」
この宣言に現地の列強代表は支持を表明すると同時に治安部隊による協力を申し出たのだ。元々、自称:大韓民国臨時亡命政府のメンバーが阿片密売、人身売買、女衒の元締めという犯罪行為を繰り返し上海とその周辺地域の治安を著しく害していたことから列強各国は苦々しく思っていたのだ。
大英帝国の商人に至っては非公式であるが「阿片は元々我々が扱っていて利益を出していたのだ、誰の許しを得て商売をしているんだ」と冗談交じりに苛立ちを示していた。
自由交易という建前であっても、実際には列強各国の権益があるため他国の影響圏での勝手な振る舞いはマナー違反であるのは言うまでもないことであるが、その国際常識を平気で無視して身勝手な振る舞いをしていることもあって列強の資本家、企業、商人はいずれも自称:大韓民国臨時亡命政府という存在を目の敵にしていた。
だが、上海や周辺地域の住民にとって慣行破りをして荒稼ぎする彼らの存在はまた都合が良い存在でもあり、また政情不安で統治がまともでない支那という国情を考えると人身売買や女衒、阿片密売は生きていく上で必要悪であった。そのため、列強に反発する支那人にとってよりマシな存在が誰かと言えば同じ悪徳であっても自称:大韓民国臨時亡命政府であるという側面も否定は出来なかったのである。
であるが、新聞の紙面にはそのような現地の実情など書いてあるはずもない。
「ふぅ」
自分たちの都合しか書いていない新聞を流し読みしていた彼女はコーヒーを一口飲んでから一息つく。
「ホント、勝手なことしか言わないわね……あちらさんの都合だってあるでしょうに……まぁ、そもそも、弱いのだから仕方ないのだけれど……」
そんな彼女も強者の側であるがゆえに弱者が強者に従うのは当たり前という思想である。それこそが彼女の祖国であるアメリカの常識であり、彼女らの神の意志である。
「強きをくじき、弱きを助ける……そんなのは絶対的な強者だから出来るのよ……そして、強者は弱者から収奪するから強者足り得るのよ」
彼女は世の真理を呟く。
「でも、日本側が思ったより理性的なのは驚いたわ……以前の日本なら間違いなく朝鮮半島に弾圧の風が吹き荒れたでしょうに……いえ、朝鮮半島は大英帝国のインドと同じく分断統治されることで反日に向かうことが出来なくなっている……それに朝鮮半島に進出した鉱山会社が揃って定額働かせ放題でぼろ儲けって言っていたけれど、抵抗する気力さえなくすように仕向けているのだから流石だわ」
彼女はデスクに鎮座するポートレートに視線を向ける。
「あなたは悪魔なの?」
そこには自分と彼とその妻が映っていた。
「ユイナ、いつまであなたは彼に好きにさせるの? ソウイチロウが行きつく先は地獄かも知れないわよ? あなたたちのジャパンと私のステイツが対決する方向に進んでも良いというの?」
彼女、アルテミス・フォン・バイエルラインは複雑な胸中を呟く。
彼女は帝都東京の有坂本社からの指示に従いつつ、一部において妨害工作を行っている。それが有坂総一郎を救うと信じて。日本に力を付けさせないように核心的な技術や機械を出来るだけ日本へ輸出出来ないように裏工作をして……。
だが、彼女が出来るのは妨害工作が精一杯だ。その場にいない人間の考えと行動を把握することは非常に困難であるからだ。しかし、彼女の妨害は彼女が思うよりも遥かに効果的であったのであるが、それは当人たちのあずかり知らぬ場所において発揮されていたが、それに当人たちが気付くことは終生なかった。




