東條英機の憂鬱
皇紀2590年 7月14日 帝都東京
東條英機の朝は早い。前夜に取ったメモからその日に必要となるであろうものを予習するところから始まる。
朝食の後、用賀の自邸から公用車で陸軍省へ向かう途中も朝刊を広げつつ必要な情報を手帳へ記入する。無論、重要度ごとにランク付けと関連情報を付記するのを忘れない。
この日は陸軍省に出仕した後、兵器本部軍事調査委員会の会議において列強の軍備への報告を受け、不備を指摘、ドイツおよびスウェーデンへの情報収集が足りていないと注文を付ける。また、30年時点報告における軍需工業生産高において占める割合が10位でありわずか2%でしかないことに対しての是正を勧告した。
7大列強ですらないデンマークやベルギー、オランダに及ばない生産高という事実を突きつけられ東條の表情は引き攣っていた。
シベリア出兵、満州事変など立て続けに発生した外征で生産高は増えているはずであるというのにこの数字であるということは軍需生産については転生後に与えた影響がそれほど大きいものではないと痛感させられるものであった。
だが、この報告で上がっていた数字は軍需であり、実は軍需にも影響があるいくつかの産業については除かれているのだ。
例えば火薬生産にも関係するアンモニア製造に関してここには載っていない。自国の分もであるが、他国の分も載っていない。つまり、戦時における弾薬製造能力についてはその基礎的部分が把握出来ていないということである。
また、銃火器の威力増大を狙っての口径統一も前線部隊を中心に更新は進んでいるが、未だに全部隊にまで行き渡らないという問題と戦時動員がないという前提での更新時期についての報告も東條は頭を痛めていた。
「明らかにこれは陸軍予算が足らぬということではないか……」
東條は呻く。
「はぁ……全くその通りでして、軍縮によって騎兵連隊を中心に統廃合と兵科転化などで予算圧縮をしておりますが、その多くは人件費に消えております。特に昨今は民間の給与と軍隊での給与の差が如何ともしがたく、給与を引き上げることで兵たちの不満を逸らすのが優先となっておるのです」
「景気が良いからな……財界の連中は技術を有している兵を民間に戻せと言ってきているくらいであるから貴様たちの言わんとするところはわかる」
「そうなりますと、現在の師団数では到底軍備に回す予算が削られてしまいまして……結果、前線である関東軍、浦塩派遣軍、朝鮮軍、北支駐屯軍、上海駐屯軍に回るという悪循環でありまして……」
調査委員たちは皆揃ってげんなりした顔で予算不足の問題を口にする。
そこで東條は一つの事実に気付く。
「すまないが、この数字だが、あくまで実績値としての割合と生産数であろうな?」
「はい、生産額、輸出総額、生産数であります」
調査委員は資料を見直しつつ応える。彼は東條の質問の真意に気付く。
「閣下、各工廠、各企業に改めて操業率90%以上での生産見込み数の情報を確認するように手配いたします」
「そうだ、実績は今の資料で把握出来ているが、我々がこれから必要になるのはどこがどれだけ生産出来るか、それになる。無論、欧米の数字も今の資料よりもはるかに大きくなるだろうが、それはそれだ、生産能力がどれくらいなのか、それが判明しないことには予算の話も出来ない……政府に話を通すにしても数字は必要だ……特に大蔵省の三羽烏相手だ、中途半端な数字では納得出来まい……小口の生産ではなく、大口の生産でどれくらいまで単価を下げられるか、そこまで見積もりを取ってこい」
東條の指示を受けた調査委員は会議室を飛び出していく。彼とその部下は暫くの間陸軍省と企業との間を往復する日々になるだろう。
東條は次の資料を目にして改めて自軍の兵器が外国製兵器に頼っていることに気付かされる。有坂重工業によって40年代の小銃や軽機関銃を早期導入出来たと言っても、あくまでそれは小火器での話であり、戦車など装甲車両に関しては技術的問題から少数とは言えど外国製兵器を購入してリバースエンジニアリングにより技術習得せざるを得ない。
当然、その額は本来兵器生産などに用いることが出来る予算であり、少数の購入であるがゆえに割高であり、補修備品も最低限である。壊れてしまえばそこまでのある意味では使い捨てだ。それに高額の支払いをしていることで通常兵器の調達にも支障が出ているのだ。
無論、東條は購入品目として載っている兵器に関して、明らかにこれは失敗作だと思うものも複数存在し、カネの無駄だと思っているものもあるが、それとて転生していることで知っている知識だ。その失敗作が技術的向上に役立っていることもあり何とも言えない表情を浮かべるしかない。
――我が帝国が欧州大戦に直接関係していなかったから良かったが、こんな調子であの泥沼に首突っ込んでいたら支那事変の泥沼など大したことのない状況になっていたのではないか?
東條は改めて前世の大日本帝国の絶望的状況を報告で受け取る資料で感じていた。いや、それを知っていたからこそ、軍事調査委員長、軍事調査部長という職務を利用して帝国の実力を分析させていたのだ。




