西日本視察<4>
皇紀2590年 7月12日 大刀洗
案内役の佐々木忠則少佐による運転で田舎道を走ること30分。
T型フォードは酷使されているというのは冗談や修辞ではなく、文字通りのものだった。乗り心地は悪く、舗装された道路や現代の自動車やシボレー1929年モデルに乗り慣れた有坂総一郎にとっては幼少時の軽トラ並みより酷い揺れに車酔いの症状が出ていた。
「……陸軍省には一言お伝えしておきます……こんな酷い車じゃ現場は苦労しているだろうと……」
総一郎は青ざめた顔で吐き気を抑えつつ佐々木にそう言うとT型フォードから降車したが、よろめいてしまいドアに寄り掛かった。
「大丈夫ですか? 自分らは慣れておりますが、流石に有坂さんにはこれはきつかったようですね。ですが、本省にそう伝えていただけますと部下たちの苦労が浮かばれます……さぁ、こちらです」
佐々木の案内で大刀洗北飛行場の管制兼用の見張り台へ向かう。
史実における北飛行場は重爆撃機用の滑走路と誘導路兼用の補助滑走路が存在していた。主滑走路は1500m×60m、補助滑走路は1100m×30m。1943年から用地買収を始め1945年に完成した飛行場である。
だが、この世界では事情が違う。
シベリア出兵、支那動乱、満州事変と立て続けに戦乱に巻き込まれた帝国陸軍は大陸方面への中継拠点としての大刀洗飛行場の重要性を再認識せざるを得なかった。特に膠州の殲滅戦における教導飛行団の活躍は航空機による地上部隊への攻撃、また都市への戦略爆撃という両面における戦訓をもたらしたのであった。
そのため、広大敷地面積を有するが滑走路がなく、一面原っぱである従来の大刀洗飛行場ではなく、北5kmに新飛行場の造成を決定したのだ。それが28年の年末のことであり、29年には用地買収を推し進め、同時に高規格の軍用線を鹿児島本線原田駅から分岐させ大刀洗線として敷設させたのであった。30年に入ると筑豊の石灰を持ち込みコンクリートで滑走路を造成し始めたのである。
「日本一どころか東洋一の大規模飛行場だと言われていた大刀洗飛行場でありますが、この工事が終わりますと世界一だと誇れる代物になりますよ」
管制兼用見張り台の上から造成が進む北飛行場を誇らしげに胸を張った佐々木が身振り手振りで説明する。
「北飛行場は現時点で1500m×50mの第一滑走路、1000m×30mの第二滑走路が造成中ですが、用地は十分に確保されており、それぞれ2000mまで拡張可能になっています。また、渡辺鉄工所が工場用地を北飛行場に隣接させて建設中です、あのスレート屋根の建物がそうです」
「南の川周辺の工事はなんです?」
「あぁ、あれですか、あれは草場川の付け替え暗渠化工事でして、あの周辺に中島飛行機の工場が建設される予定だそうですよ。なんでも、大刀洗軍用線のダイヤはスカスカだからここに工場を造って自動車を造る……だそうです」
軍需産業が揃って大刀洗に工場を進出させつつある状態に総一郎は驚きを隠せなかった。
渡辺鉄工所は元々海軍と付き合いが深い企業であるのに真っ先に大刀洗に進出している。史実でも陸軍関係のモノに関して1937年《昭和12年》に大刀洗製作所を設立しているが、どうやらそう言った状態ではない。史実で渡辺鉄工所が飛行機部門を創ったのは1930年6月のことだ。だというのに、渡辺鉄工所は時を同じくして、いや、それよりも早く大刀洗に航空機関係の工場を進出させている。
――一体何が起きている? 渡辺鉄工所……後の九州飛行機に何が起きているんだ?
総一郎が内心言いようのない焦燥感に駆られている中も佐々木は説明を続けていた。佐々木の説明に相槌を打ちつつも言い知れない不安を抱えつつ再びT型フォードへの乗車を促され応じたのであった……。
無論、考え事にのめり込んだ総一郎はあっという間に車酔いになった。
「と……止めて下さい……うっ……」




