西日本視察<2>
皇紀2590年 7月12日 大刀洗
有坂総一郎は鉄道省の官僚たちと合流するとともに関門トンネルの建設現場の視察に赴いた。
鉄道省が抱えている難工事はいくつかあるが、その中でも優先度が高い工事としてトンネル工事が上位を占めている。第一位が関門トンネル、第二位が丹那トンネル、第三位が日本坂トンネルである。
陸軍技術本部と始めたブルドーザーなど土建重機の開発と量産は鉄道省による大量発注によって全国遍く鉄道工事現場に普及が進んだのであるが、トンネル建設工事だけはそうはいかなかった。
地質は場所によって異なるため、実績が多いからと言ってその方式だけを用いることは出来ない。よって、どうしても時間はかかるしその時々で適切な工事方法に切り替える必要があるのだ。
ではあるが、従来の様な人海戦術頼みではなく、機械化出来る部分に重機を惜しみなく投じたことで建設工事そのものは非常にスムーズに進んでいる。それだけでなく、大量に必要となるコンクリートについても技術的な進展にも結び付いている。速乾セメントの開発や山口県、福岡県に広がる石灰大地の活用により急速にセメント業も発展を遂げるのである。
元々福岡に本拠を構える麻生財閥も弾丸列車構想、列島改造論によって需要が増大した本業である炭鉱だけでなくセメントに力を入れ、その規模の拡大によって九州最大の財閥にまで伸し上がっていた。これは麻生財閥総帥である麻生太吉が史実において33年にセメント産業へ参入したそれを遡ること10年、23年の帝国議会で総一郎らが旗振りをした時点で貴族院議員として九州地区では最も早い段階で列島改造論に賛同し、真っ先に麻生財閥の総力を挙げて動き出したのだ。
結果、門司鉄道管理局と結びつき、線路の高架化やPC枕木の導入により帝都周辺についで鹿児島本線及び筑豊本線は先進的な鉄道路線となり、また改軌が進む前でも重量級列車の運行や高頻度運転が容易となり輸送実績が急増していたのだ。無論、これの恩恵は麻生財閥の発展を促すものであった。
石炭需要の増大、セメント需要という新産業の発展、雇用環境の改善、これらは北九州地区における一種のバブル景気を産み出すこととなった。そこに出光商会によるガソリン販売とフォードジャパンの量産自動車の普及という初期モータリゼーションが進行した。
自動車の普及は農村地帯と都市部を結ぶ輸送需要を代替することとなり、山間部への鉄道建設要求が低下し、鉄道省への赤字路線建設陳情が相対的に減ったのだ。無論、地方弱小私鉄にも影響が出るのは史実と同じであり、旅客輸送実績は乗合自動車に取って代わられたことでこの2年で急激に低下していた。だが、貨物自動車は鉄道省や大手企業が独占していることもあり乗合自動車に比べて普及が進まないため逆に貨物輸送実績が急増した地方弱小私鉄も存在した。特に鉄道省規格で普及が進んだコンテナは中小私鉄にとっても都合がよく、輸送実績の拡大につながっていた。
そして、史実通り開設されていた大刀洗の陸軍飛行場に総一郎は訪れていた。
大刀洗飛行場は19年に開設され、25年時点で日本最大の航空基地となっていた。また、29年には帝都-大阪-大刀洗-釜山-京城-大連に大日本航空と日本航空輸送の定期便が開設され、民間空港としての機能も担っていた。
史実では39年に省線甘木線を開業させ、大刀洗飛行場への物資輸送を行う様になったが、この世界では陸軍省と鉄道省が非常に仲が良いこともあり、西日本最大規模である大刀洗飛行場へ高規格線路を甘木線ルートではなく、鹿児島本線原田駅から分岐させ、大刀洗北飛行場を経由して大刀洗飛行場へ向かうルートで建設していた。
この路線は大刀洗線と命名され、途中に大きな集落もないため途中駅は北飛行場接続の北大刀洗、大刀洗だけで、終点甘木の合計3駅しか存在しない。文字通り軍用路線である。しかし、その線路規格は鹿児島本線と同等の特甲線規格となっており、史実のC53形、C59形、C62形が余裕で入線出来る水準である。無論、鹿児島本線そのものも門司港-熊本までは特甲線規格に格上げされている。つまり、重量級の軍用貨物列車を帝都東京から関門トンネルを越えて直接乗り入れ可能な線路ということだ。この水準の線路は呉軍港に乗り入れる呉線や横須賀軍港へ乗り入れる横須賀線くらいなものだろう。
無論、この鉄道建設に麻生財閥も関与しており、飛行場造成をも請け負っていたのだ。
「さすが麻生家だ……あの人がまさか転生してたりせんだろうな? コンピューター付きブルドーザーの例の人の十八番を奪ってないか?」
総一郎はそう思わずにいられなかった。




