岸信介の一手
皇紀2590年 6月10日 帝都東京 市ヶ谷
商工省、岸信介らに率いられた革新官僚たちは鉄道省主導の列島改造に対して必ずしも肯定的に見てはいなかった。物流が活発化、速達化が進むことは歓迎するべきことであるが、同時に鉄道省が抱える利権構造の拡大は明らかに商工省の領分を侵害していたのだ。
商工省への陳情とそれに対する許認可という構造によって経済界や地方経済に大きく影響力を保っていたが、鉄道省はこの構造を実質的に崩壊させていたのだ。
列島改造による改軌と線路付け替えなどによって沿線の再開発が進み、また弾丸列車の途中駅や貨物駅の建設に絡み地元名士を中心とする陳情が鉄道省へ流れたのだ。また同時に貨物輸送が鉄道へシフトしたことで相対的に内海航路の輸送実績の低下が顕著となり、これに対して商工省へ陳情が急増していた。
特に瀬戸内海航路と競合する山陽本線の輸送実績の急増はそのまま海運業者の赤字幅の拡大を促す一方だった。だが、京阪神-九州航路の貨物輸送実績だけは右肩上がりだった。これは門司もしくは下関に到着した貨物が関門海峡を越えられず滞留するという問題が発生したことで荷主が船舶輸送へ切り替えたことによるものだった。
未だ関門トンネルは建設中であり、開通が見込まれるのは33年以後であるため、渡船を使い貨車航送を行っているがそもそも関門海峡は海上交通の要所であり交通量が多く渡船優先させるわけにはいかず処理能力は実質的に限界であったのだ。
そのため鉄道省もトンネル建設を急がせてはいるが日本初に近い海底トンネルの建設を行っていることもあり慎重に進めざるを得なかった。これによって内海航路の雄である大阪商船が商機ととらえ本来であれば外航船として運用する大型高速の貨物船を投入したことで本州-九州貨物取り扱い実績は30年春時点で鉄道省取り扱い実績の3倍を記録していたのだ。また、三田尻と新門司を結ぶ短距離貨物専用航路を新設し、貨車航送専用の大型フェリーを導入してピストン輸送を30年3月の鉄道省ダイヤ改正に合わせて実施したのであった。
三田尻-新門司航路開設によって門司・下関での貨物滞留は減ったのだが、鉄道省にとっては輸送手数料を支払うこととなり苦々しく思っていたが捌けずに滞留させるよりマシだと考え、関門トンネル開業後にシェア奪還を果たすことによって打開するまでは忍耐と割り切ることとなったのだ。
逆に本州-四国航路に関してはそもそもの物流量が大きくないことから鉄道省は宇高航路の高速化程度で割り切り大阪商船の独壇場と化していた。しかし、逆に四国の輸送単位が小さいことから蒸気機関車運行を40年までに打ち切り、電化もしくはディーゼル化という方針が打ち出されていたことで鉄道路線の高速化が図られることとなっている。
だが、大阪商船ほどの体力がない中小の海運業者は淘汰されていくこととなったのだ。これには商工省の方針があった。集約することで効率化によって企業体力の増強を図ること、そして集約することで商工省による統制がしやすくなるというものだった。
「まさか……商工省は船舶運営会を画策しているのか……やられた。逓信省と海軍省が中心になって作ると油断していた……」
有坂総一郎は呻くがそれ以上の言葉は出てこなかった。




